こういった人々は、だれもノーベル賞を貰っていない。こういう人々を漏らすということは、
賞として機能していない、ということだと思うのである。
そういえば、日本人でも知っている人は少ないと思うが、稲森財団が「京都賞」というものを出している。
これは基本的に、ノーベル賞が漏らしている分野に出している、と考えればよいのだが、
そのうち、基礎科学賞は下のようになっている。

85年以降のノーベル賞と比べるなら、こちらのほうが圧倒的に有名人が多い。分野を超えた影響力を持っているのだ。
あり得ないことではあるが、もし私が、ノーベル賞と京都賞と、どっちが欲しいと聞かれたら、賞金が半分だけれど、
京都賞が欲しいと答える(ぜひ賞金をもっと増やすか、対象者を増やして欲しい)。ここに出ている人と並べてもらえるなら嬉しいが、
ノーベル賞のように知らない人ばかりと並べられても、ちっとも嬉しくないからである。

ノーベル賞が出ているのは、平和賞をのぞけば、文学、物理、化学、生理学・医学だが、これらはいずれも、
19世紀の末に盛り上がっていた分野であって、現代ではもう勢いを失っているのである。たとえば文学者よりも、
映画監督とかアニメ作家の方が、遥かに影響力がある。それゆえ文学賞を貰った人の名前をだれも知らないのである。映画賞があれば、
スピルバーグとか、宮崎駿がもらって、みんなすぐに納得するだろう。彼らなら、ロマン・ロランとか、トーマス・マンとかに匹敵するくらい、大物である。
(ちなみに経済学賞は、ノーベル賞ではない。スウェーデン銀行賞である。)

つまるところ、ノーベル賞は時代遅れの賞なのである。もうこんな時代遅れの賞に大騒ぎするのはやめたらどうだろうか。
(だから、私は「イグ・ノーベル賞」の方がましだと言っている。)

少なくとも、日本人が貰ったら大喜びし、だれも貰えなかったらガッカリするのはあまりにも恥ずかしい。
貰った人はそれはそれはおめでたいことだと思うけれど、日本人が貰っても、中国人がもらっても、
インド人がもらっても、アメリカ人がもらっても、別にどうでもいいのである。