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【予想】ノーベル賞総合スレッドPart6【実況】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/02(日) 18:01:07.31
ノーベル賞関連リンク

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前スレ
【予想】ノーベル賞総合スレッドPart5【実況】
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0063Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:18:01.15
この時期になると、世界のお騒がせ機関の「ノーベル賞財団」の「世界のお騒がせ期間」となる。
それもやっと終わったようである。今回のものもそうだが、ノーベル賞は「(物事の)発見や発明や応用」に
与えられるものだから、「(物事の理論的)説明、解明、証明、究明」に与えられるものではない。

それゆえ、かのアインシュタイン博士の場合も、「ブラウン運動理論」や「相対性理論」や
「ボーズ?アインシュタイン凝縮」ではなく、「光電効果」にノーベル賞が与えられたのである。
したがって、物事を理論的に究明することがノーベル賞の目的ではないのである。

だから、だれかが運良く発見すれば、結果的に他のだれかがその現象を究明したとしても、
その人は二番煎じということになってしまう。ここにノーベル賞型の、19世紀ロスチャイルド型/ロックフェラー型の
自然科学認識法には誤りが潜むのである。

我々科学者は「自然を理解するために日々活動している」のである。だから、必ずしも発見の一番、
二番を競うために行なっているのではないからである。むしろだれが一番最初に解明するか、
正しく理解するか、ということの方に主眼があるのである。

ところが、数学の世界は面白いことに、この点が「ノーベル賞型の自然科学観」とはまったく逆になっているのである。
言い換えれば、数学では「だれが一番最初に証明するか?」を競っているのである。
「あたらしい概念をだれが提出したか?」も大事で、それもさることながら、何よりも大事なことは、
その概念や定理が「正しいかどうか?」なのである。だから、だれかが一々証明しないかぎり、一歩も前進できないのである。

したがって、「19世紀ロスチャイルド型自然科学観」と数学世界はほぼ直交しているわけである。
だから、ノーベル賞に数学がないという1つの理由として、こういう本質的な事情があるのではないかと
私個人は見ているというわけですナ。
0064Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:18:36.11
我々の理論物理学は、簡単に言えば、ノーベル賞型自然科学観と数学型のほぼ中間に属すると
言えるだろう。発見も大事だが、数学的証明も大事である。しかし、特に大事なことは、
理論の実験的証明である。いくら美しい、良い理論でも、いくら証明が美しくても、
それが実験で証明されない限り、無効であるというのが、自然科学における理論というものだと
考えられているということである。

だから、理論物理学もまた、「ノーベル賞型自然科学観」からはかなり離れた場所にいる。
それゆえ、理論物理学者がノーベル賞をとった例は数えるほどしかないのである。かなり例外中の
例外に属する。しかしながら、日本人はこの例外の方が多いのである。湯川秀樹、朝永振一郎、
福井謙一、南部陽一郎と4人も理論研究でノーベル賞をとっているのである。

この理由の1つは、日本は物理学の出発当時から、physicsを「究理学」と名付けたことに由来していると
私個人は見ている。物事の理由や原因を説明することが「究明」という意味である。
その相手が自然現象であるものを「究理学」と考えたのである。

この伝統が明治、大正、戦前、戦中、戦後を貫いてまだ生きているに違いないということである。
なぜなら、我々は1つのことを見つけて、美酒に酔うよりは、そのことをもっとよく知り究明したいという
「道」の精神の方を好むからである。「柔の道」、柔道;「学問の道」、学問道、こういう日本人独特の認識の
仕方があるというわけである。もちろん、これには一長一短あるが、学生時代に「1つの道を見つけて、
それに一生励む」というタイプの研究者は日本では非常に多いのである。

とまあ、前置きはかなり長くなってしまったが、私がいつも「ノーベル賞は終焉した」と書いてきたのと
ほぼ同じような視点でノーベル賞を論じている人がいたので、今回はそれをここにもメモしておこう。以下のものである。

安冨歩氏の「ノーベル賞のバカバカしさ」というものである。文中の赤い字の補足は私のものである。
0065Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:18:58.95
ノーベル賞のバカバカしさ


また今年も、ノーベル賞の狂騒曲が始まった。ほんとうに、毎年、うんざりである。これほどバカバカしい話もない。
何がバカバカしいかといえば、もらう人がどんどん小粒になっているからである。
たとえばそれは、ノーベル賞のなかでも特に権威の高い物理学賞を見れば明らかである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%B3%9E


を見ると、最初の頃は、レントゲン、ベクレル、レイリー、キュリー、モーレーといった非常に有名な人々が並んでおり、
二十年代は、アインシュタイン、ボーアという超ウルトラ級がもらい、30年代も、ハイゼンベルグ、シュレディンガー、ディラックという
スーパー級が並んでいる。40年代になるとかなり落ちるが、それでもパウリや湯川がもらっている。このあたりまでは、
名前を知らない人でも、業績を見れば、ナルホドな、という気がする。

50年代になると急に知らない人ばかりで、60年代はランダウ、朝永、ファインマン、ゲルマンを知っているが、
格から言って、ランダウだけが戦前の超大物と同レベルで、あとはだいぶ落ちるように思う。70年代になると、
知っているのは江崎玲於奈だけだが、彼が湯川と同列だと思う人はいないだろう。80年代以降は、知っている人は日本人だけで、
そのうち南部陽一郎は、湯川・朝永クラスのように思うが、小柴を同レベルだと思う人はいないだろう。

それ以上に、知らない人も、知っている人も、貰った理由を見ても、何のことやら、さっぱりわからないのである。

何が起きているのかというと、物理学の発見が人類の世界に対する認識に与える影響が、急速に落ちている、
ということである。有り体に言うと、ノーベル賞が出るような種類の物理学が、衰退しているのである。
物理学と言っても、範囲は広く、たとえば非線形科学などは、戦後に急速に発達したのだが、
ほとんどノーベル賞の対象になっていない。ケネス・ウィルソンが相転移に関して貰っているけれど、
彼は果たしてこの分野で、唯一と言えるほど、傑出した人なのだろうか。
0066Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:19:17.73
現在の物理学をざっと見れば、おそらく、ノーベル賞候補になる人は、数百人を下らないと思う。
分野をどう分けたらよいかわからないけれど、おおまかに分けて50くらいの分野があって、
それぞれに10人くらいは貰ってもおかしくない人が居る、という目算である。そのうち、だれが偉いかは、
はっきりいって、比べようがない。それゆえ、分野間の綱引きダイナミクスが働いて、どの分野に出るかが決まり、
その候補者の10人のうち、運の良い人に落ちる、という具合だと思えばよかろう。
過去の履歴から見ると、そのサイコロの目は公平ではなく、

白人が圧倒的に有利(白人の中でも偽ユダヤ人(アシュケナージ)有利)

である。

それに、物理学自体が全体として、かつてほどの勢いがない。20世紀後半では、計算機科学とか、
生物学とか、生態学とかにもっと優れた学者が出ている。分野を超えて影響を与えた人々として、
まぁ、適当に思いつくままだけれど、次のような人々が頭に浮かぶ。
0067Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:19:41.89
アレクサンドル・リャプノフ(リャプノフ安定性理論)
ノーバート・ウィーナー
ジョン・フォン・ノイマン
ルネ・トム(カタストロフィー理論)
S・ポントリャーギン(最大値原理)
リチャード・ベルマン(動的プログラミング)
アラン・チューリング
アンドレイ・コルモゴロフ
エドワード・ローレンツ
ブノワ・マンデルブロー
ウィリアム・ドナルド・ハミルトン
スティーヴン・ジェイ・グールド
エドワード・オズボーン・ウィルソン
ジョン・メイナード=スミス
マービン・ミンスキー(計算理論)
ジョン・ホーランド(遺伝的アルゴリズム)
レオナルド・エーデルマン(DNAコンピュータ)
スティーブ・ジョブズ(パーソナル・コンピュータ、3Dアニメーション)
スチュアート・カウフマン(カウフマン複雑系理論)
アルバート・ラズロ・バラバシ(複雑ネットワーク理論)
大野乾(すすむ)(遺伝子の重複進化説、ジャンク遺伝子)
ロバート・ミウラ(ソリトン理論、逆散乱法)
木村資生
蔵本由紀
0068Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:20:04.13
こういった人々は、だれもノーベル賞を貰っていない。こういう人々を漏らすということは、
賞として機能していない、ということだと思うのである。

そういえば、日本人でも知っている人は少ないと思うが、稲森財団が「京都賞」というものを出している。
これは基本的に、ノーベル賞が漏らしている分野に出している、と考えればよいのだが、そのうち、基礎科学賞は
下のようになっている。

85年以降のノーベル賞と比べるなら、こちらのほうが圧倒的に有名人が多い。分野を超えた影響力を持っているのだ。
あり得ないことではあるが、もし私が、ノーベル賞と京都賞と、どっちが欲しいと聞かれたら、賞金が半分だけれど、
京都賞が欲しいと答える(ぜひ賞金をもっと増やすか、対象者を増やして欲しい)。ここに出ている人と並べてもらえるなら嬉しいが、
ノーベル賞のように知らない人ばかりと並べられても、ちっとも嬉しくないからである。

ノーベル賞が出ているのは、平和賞をのぞけば、文学、物理、化学、生理学・医学だが、これらはいずれも、
19世紀の末に盛り上がっていた分野であって、現代ではもう勢いを失っているのである。たとえば文学者よりも、
映画監督とかアニメ作家の方が、遥かに影響力がある。それゆえ文学賞を貰った人の名前をだれも知らないのである。
映画賞があれば、スピルバーグとか、宮崎駿がもらって、みんなすぐに納得するだろう。彼らなら、ロマン・ロランとか、
トーマス・マンとかに匹敵するくらい、大物である。(ちなみに経済学賞は、ノーベル賞ではない。スウェーデン銀行賞である。)

つまるところ、ノーベル賞は時代遅れの賞なのである。もうこんな時代遅れの賞に大騒ぎするのはやめたらどうだろうか。
(だから、私は「イグ・ノーベル賞」の方がましだと言っている。)

少なくとも、日本人が貰ったら大喜びし、だれも貰えなかったらガッカリするのはあまりにも恥ずかしい。
貰った人はそれはそれはおめでたいことだと思うけれど、日本人が貰っても、中国人がもらっても、
インド人がもらっても、アメリカ人がもらっても、別にどうでもいいのである。
0069Nanashi_et_al.
垢版 |
2016/10/03(月) 11:20:23.77
京都賞基礎科学部門受賞者

1985年 クロード・シャノン
1986年 ジョージ・イヴリン・ハッチンソン
1987年 ヤン・オールト
1988年 アブラム・ノーム・チョムスキー
1989年 イズライル・モイセーヴィッチ・ゲルファント
1990年 ジェーン・グドール
1991年 エドワード・ローレンツ
1992年 西塚泰美
1993年 ウイリアム・ドナルド・ハミルトン
1994年 アンドレ・ヴェイユ
1995年 林忠四郎
1996年 マリオ・カペッキ
1997年 ダニエル・ハント・ジャンゼン
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