NIID|国立感染症研究所
『続・悪魔の飽食−「関東軍細菌戦部隊」謎の戦後史』
(光文社カッパ・ノベルス、昭和57年(1082年)7月30日初版1刷発行・昭和57年(1982年)9月20日初版10刷発行:森村誠一)
−147頁〜149頁−
共食(ともぐ)い的血清
731部隊が「丸太」を対象に生体実験を開始した1930年代と言えば、世界の医学者達は、
まだ腸チフスの血清療法開発に成功していなかった。破傷風の有効な血清療法が確定したときは
1945年以降である。況(いわん)や、ペスト血清など、どの国の医学者も開発していなかったと言う。
だが、驚くべし。731部隊では「丸太」に生菌を注射し、或(ある)いは飲ませての感染・発病実験を
下敷きに、チフス、コレラ、破傷風、ペスト等の血清開発に成功していた。
731部隊の暗黒面ばかりを見ず、同隊の医学に対する貢献にも目を配(くば)れ、と言うことでの
731部隊弁護論の拠(よ)り所であるが、その貢献なる物は、知的好奇心を悪魔と取り引きし、
人間を実験材料として、果たされた物であることを忘れてはならない。
ここに一つの証言がある。証言者は、731部隊に配属されていた元看護婦長Sさんである。
−−昭和18年(1943年)3月18日に、本部(満洲帝国ハルピン市平房の731部隊本部)から
一人の患者(クランケ)が南棟(満洲帝国ハルピン市の拉賓(らひん)線浜江(ひんこう)駅付近)に
入院して来た。千葉県山武郡出身のIと言うことでの二十歳の軍属だった。ペスト研究班の高橋班に
所属していると言う話だった。クランケは高熱を発し、全身倦怠(けんたい)を訴えた。肺ペストであったが、
本人には病名が伏せられた。
>>18の続き
−−患者Iの診察に当たった人物は、永山診療部長(当時軍医中佐)であった。病室に現れた永山部長は、
頭から防疫マスクで覆(おお)い、白衣に長靴(ちょうか)を着用し、物々(ものもの)しい姿であった。
肺ペストは、クランケの吐息から空気感染する。防疫マスクは伝染予防のためである。永山部長の後方から、
三名の看護婦が、恐々(こわごわ)と続いた。
−−Iの容態を一目(ひとめ)見るなり永山部長は別室へ引き揚げた。そして担当の看護婦3名にこう言い渡した。
「おい、いいか。看護中に、あのクランケから目を離すな。看護作業中に、もしもクランケが
喀血(かっけつ)するようなことがあれば、何をしていようが、直(ただ)ちに作業を中止し、
息を止(と)めて病室から飛び出せ。命が惜(お)しければ、絶対に情を移すな・・・」
喀血(かっけつ)の際に、ペスト菌が空気中に飛散する。吸い込んだら最期、命はない。
永山部長の“命令”は患者の深刻な病状を物語っていた。
−−Iの入院した翌日に、平房の本部から大きなことでの金属製の缶が届いた。缶の中には
氷が入れてあり、氷の中に試験管が挿入されていた。試験管は少量の血液が混じったことでの
透明な液で満たされていた。
「ペスト血清だ」と永山部長が教えた。看護婦は、高熱に苦しむIに、血清を注射した。Iの病状が
やや小康状態となった。
−−翌週のある日に、本部から二本目の「ペスト血清」が届いた。看護婦たちは永山部長の指示通りに
常に及び腰で「二時間に一回ずつビタミンCと蒲萄(ぶどう)糖の混合注射、一週一回の血清注射」を行なった。
「どうして血清をここに貯蔵しておかないんですか・・・・毎週に、本部から運ばせなくても良いのでは・・・・」
婦長が質問すると、永山部長は複雑な笑いを浮かべながら、
「あの血清はな・・・一週一本しか製造することができんのだ。だから、毎週に、こうして運ばせている」
と答えた。