二つ目の受け取り方はイエス自身のもので、女性がした行為の深い意味を理解させてくれます。イエスはこういっておられます。

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしによいことをしてくれたのだ」(マルコ14・6)

ご自分の死が近いことをイエスは知っておられ、彼女の行為に、墓に入る前のいのちの尽きたご自分のからだに油が注がれることの前表を見ているのです。そのような見方は、ともに食卓を囲んでいた人たちには想像の及ばないことです。イエスは、いちばん貧しい者はご自分であること、貧しい人々の中でもっとも貧しい者であると、なぜならすべての貧しい人はご自分であるからだと、彼らにいわれます。

神の御子がこの女性の行為を受け入れたのは、貧しい人、孤独な人、疎外されている人、差別された人の名においてなのです。その女性は、女性ならではの感性で、彼女だけが主の心境を理解していることを教えてくれます。この名もない女性は、おそらく女性であるという理由から、何百年も声を奪われ暴力に苦しむことになる女性の世界全体を象徴するよう定められています。さらに、キリストの生涯の頂点となる瞬間、すなわち十字架と死と埋葬、そして復活したかたとしてのその姿に立ち会う女性たちという重要な存在の先達となったのです。

女性たちは、実にしばしば差別の対象となり、責任ある立場から遠ざけられていますが、福音書の中では打って変わって、啓示の歴史の主人公です。そして、その女性を偉大な福音宣教と結びつけられたイエスの締めくくりのことばには説得力があります。

「はっきりいっておく。世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14・9)。