このような「摂決択分」の考え方の背景には修道論の影響が大きい。
先にみたように修道論の立場では、真如を作意するとき、初めは概念としての真如である「真如の相」を作意し、次第に真如そのものの直観へ向かって行く。
真如の相を作意している段階では、結局は相を対象としているので、作意は分別を伴っている。
修行者が真如に「通達」する段階に達したとき、真如の相ではなく、真如そのものを見ているので、もはや分別ははたらかない。

しかし、分別がはたらかなくなるなら、分別を原因としている本性相は生じなくなるはずである。
本性相は世間の人々に共通して認知されている対象だが、修行者が真知に通達したとき、世間の人々と共有されている本性相も消えてなくなってしまうのであろうか。
言い換えると、一人の修行者の内的体験である真如への通達は、修行をしていない世間一般の人々が経験している世界も消失させてしまうのであろうか。
「摂決択分」はこの問題について、次のように答えている。