>>346
わたしはもともと自らの進路を誤り理系の勉強をしたことで卒業後は技術畑の仕事をしてきました。
自分の性分に合わない仕事であっても、それはお金のため、つまり家族と自分を養うために続けた仕事です。
人間関係と組織の歪〔ひずみ〕が常に重く圧し掛かる苦悩に満ちた人生だった。
そんな人生の主旋律に並行する形で、わたしは人間〔心と肉体〕や物理存在としてモノ、更には信用という
無形の存在に至るまでの全ての存在それ自体に本性はあるのだろうか?と疑うようになった。
日々雲を掴むような矢の如く過ぎ去る日常の不条理に抗うように「救いはあるのか?」と思うようになり、
キリスト教〔カトリック〕の信者だったこともあるし自分の心の中で常に立ちはだかり続けた唯物論との
葛藤のなかで物理的な合理性を超越する不思議な「何か:神秘」を確かめるべく探求の旅を続けてきた。
長く生きて来た自分という人生の苦痛苦悩に意味はあるだろうか?、そもそも、そんな自分の正体とは一体何者で
あろうか?、たんに思考する動物としての人間に過ぎず、本能に従って生きんがために苦しみ続けて、死んで無に
帰するだけに【過ぎない】のだろうか?。これら疑問への回答としてのキリスト教信仰とは?
だがキリスト教信仰箇条を信仰することでもがく自分の姿が「沼に堕ちるが如し」と気付いて棄教しました。
そしてこの「沼に堕ちるが如し」の状態がなぜ発生するのかを自己分析する試みのなかで出会ったもう一つの
キリスト教としてのグノーシス派。そこから新しく浮上してきたナザレのイエスとマグダラのマリアの人間性は
実に新鮮で生き生きとしていた。マグダラのマリアのその後はどうなったのか?