>>135
>琴さんや幸福さんはイエスの十字架を、
>クリスチャンがイエスを精神的に生贄にし続けていると
捉えていますが、
>キリスト教では人間がイエスを生贄にしたのではなく
>イエスが(神が)自己犠牲として
>十字架にかかったのだと捉えています

キリスト教でそのように解釈されているのは
知っております。

>このキリストの自己犠牲こそ十字架の中核であって、
>その自己犠牲を強いたのは
>他ならぬわたし自身の罪である、
>と認識することが贖罪論の核となっているのです

はい。
けれども、「愛ある行動人」が殺されたり、
処罰の処刑されたりは、意識レベルが非常に劣悪な
社会でり、それは社会構成員(我々)
の意識が劣悪の反映であると
気が付く人が出てくるでありましょうし、
それでも、気付きたくない人もありましょう。

そこにね、贖罪という言葉を使う必要がありますか。
知識でなく知性と関係していると
思うのですが、自分達社会構成員の意識レベルが
イエス殺しなのです。
罪とは愛を最優先にしないで、
他の何かを優先しているのでしょう。
本当は知っている、
しかし人の正直は愛を知っているのですが。

>ですから贖罪論は生贄の肯定ではなく、
>罪の自覚による生贄(暴力)の否定に
>その本質があるのです

はい、キリスト教ではそういう考えなのでしょう、
それでも、わたしは、おかしいと考えます。