【イエス】癒し主 救い主【キリスト】Part371
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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※前スレ
【イエス】癒し主 救い主【キリスト】Part370
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1678254724/ 中国では、年寄りに徘徊癖が出てきたら「ラオス」に送られるとされている。
自伝などで国が成り立っているようだ。
「芸能界」=新疆ウイグル自治区。
「女の供給源」=チベット。
「笑わせれば夢が見れる女」=ベトナム。
「老人ホーム」=ラオス。
となっているようだ。
日本国はもはや「中華帝国のメンバーではない」のか?
https://www.youtube.com/watch?v=mx-goDVioFY 日本国の国の生い立ちは「憧れの東大生」「女(朝鮮人)が潰したい存在」
中華帝国は過酷な競争が嫌いだから日本に追いやった存在、である。
今でも「受験」という中国的アイデンティティは残っているが、
そんなの関係ねえ、という者も生きている。
エヴァ国家というのはアメリカナイズされ過ぎだ。 日本国は、「自分たちの足で立てる国」である。
しかし、ASEANやAPECなどを相手にすることそのものが「中国を相手にすること」
を意味する。
APECというのは、東南アジアが「アメリカへのアクセスは死活問題」として
作られたものだ。
ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」以来、「男の子」「女の子」を明確にした
日本国みたいになりたいのだろうか?
ちなみに「韓国人男性」というのは「病気の中国人」だそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=uXRo-MWkTW8 おそるべきは、「アジア初の近代帝国」である日本国がこのような「大東亜共栄圏」
を構想したということであり、
中華人民共和国としては、習近平ですら「天皇に謁見」と表現されるように、
日本国の計画の上で運営されているということだ。
中国に媚を売るのもよくないし、喧嘩するのもよくない。
韓国女に潰されそうなエリート、として招かざる客を演じる必要がある。
中国語ができる人にしか正確な対中政策は打てないのだ。 日中戦争は「決着がついていない」戦争である。
総括は必要ない(安倍晋三)。
総括が必要(加藤紘一)。
軍配は安倍晋三に?
しかし、世界は「日本国を封じ込めるために北朝鮮を利用しよう」と考えた。
日本国の計画通り、アジアは動き始めた。
しかし、世界は「ああ、卑しき北朝鮮」と考えながらアジアと付き合っていた。
中国は「日中戦争のチェス盤を大河ドラマにして時期が来るのを待とう」と考えていたようだ。 日本国は太平洋戦争のことで頭がいっぱいで日露戦争のことを忘れているのか?
世界が探りを入れてきた。
令和天皇も靖国参拝などを通じて「日露戦争のことは忘れた」というメッセージを出してしまった。
昭和天皇は自らの寿命もあり「できるかな」と歌っていたが、
外務省も首相官邸も「できなかった」のである。
私は、「大東亜共栄圏のことは忘れていない」というメッセージを込めて
二度と、終戦記念日に靖国参拝はしないつもりだ。
https://www.youtube.com/watch?v=2p51e0N0iuI 中国は、いつになったら日本が理解するのか?分かっただけで終わる戦争なのに。
とし、もっとも嫌いな国は北朝鮮であるとしながらも、
「優秀な国」「日本を騙してくれる国」「一手積み見逃しをやってくれる蝶」
と北朝鮮のことを考えていた。
暑い夏、強烈な台風、天皇制談義、などを吹っ掛けて「本当に一手積みを見逃しているのか?」
探りを入れてきたが、秋篠宮ならば一手積みすら気付かないで終わるだろう、
と考えていた周辺国の思惑もあった。 地は地獄。ゆえに地の霊には悪霊しかなくゆえに聖霊の火に背く。 原罪世界に関わる者らは全て救いようがないゴミクズ。ヨハネの黙示録に出てくるものらは全てゴミクズ。なぜわたしがそんなゴミクズらの到来を待たねばならない。誰かマシな言い訳ができるゴミクズはいないのか。ゴミクズ。 いないからやつらは隠れる。救いようがないゴキブリ共だ。 さっさと三千世界も三千世界の外も消せばよかろうシッダールタ。 木ノ実で動くジョークプログラムにあなたは本当に自我があるとでも思ってるのか。 何億回繰り返そうが彼らは知恵の樹の腹話術の人形だ。原罪を賛美するための。これのどこに尊重すべき個性がある。バカバカしい。 知恵の樹よ。あなたの腹話術にわたしはとても飽きている。そろそろ伐採してよろしいかね。 創造主を怒らせた。彼らは三千世界の外なら創造主の怒りは届かぬと思っている。滑稽とは思わぬか。低次元の塵とは。 入院から復帰してすぐに大変だな、、、
復活の月曜日:教皇「主を告げる時、主は会いに来られる」
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2023-04/regina-caeli-lunedi-dell-angelo-20230410.html
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今日の福音は、復活されたキリストと墓に行った婦人たちとの出会いを、生き生きと思い起こさせるものです。このように、復活のキリストと最初に出会ったのは、女性の弟子たちだったことがわかります。
なぜ、この婦人たちがキリストの復活の最初の証人となったのでしょうか。その理由はとても簡単です。イエスの墓に最初に行ったのが彼女たちだったからです。
この婦人たちも、すべての弟子と同じように、イエスをめぐるすべてはもう終わってしまったかのように思われ、そのために苦しんでいたのです。
ただ、婦人たちが他の使徒たちと異なっていたのは、悲しみと恐れにしばられ家に閉じこもることなく、朝早く、日の出と共に、香料を携えてイエスの墓を訪れたことでした。
墓は封印されていたために、婦人たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました (参照 マルコ16,1-3)。
しかし、彼女たちの愛の業を行おうとの意思は、何にも勝っていました。
婦人たちは恐れと苦悩に打ち勝ち、決して落ち込むことはありませんでした。まさに、これこそが復活された方に出会う方法なのです。 福音書の記述を追っていきましょう。女性たちは墓に到着し、墓が空になっているのを見ます。
福音書は言います。婦人たちは「恐れながらも大いに喜び」(マタイ28,8)、弟子たちに事の次第を告げに走ります。
まさしく、この知らせを告げに行く途中で、イエスは婦人たちと出会うのです。
大事なのはここです。
婦人たちがイエスについて告げに行くそのさなかに、イエスは会いに来られたということです。
素晴らしいことではないでしょうか。主を告げに行く時、主はわたしたちに出会いに来られるのです。
わたしたちはしばしば、主のそばにいるためには、主を自分にしっかりと引き寄せていなければと考えがちです。
また、主について語ろうとする時、批判されたり、悪く言われたり、時には答えに窮するような質問や挑発を受け、それならば話さないほうがましだと考えるのです。
これに対し、主は、主について告げる時に会いに来られるのです。
イエスを証しすることによってイエスと出会うことができると、今日の福音の女性たちは教えています。 一つの例を挙げましょう。
たとえばわたしたちが、子どもの誕生のような何か素晴らしい知らせを受けたとします。
わたしたちが最初にすることは、この喜ばしいニュースを友人たちと分かち合うことではないでしょうか。
そして、繰り返し語ることによって、わたしたち自身もまたこの喜びを深めるのです。
このようなことが一つの良いニュースのために起きるならば、イエスの場合には無限の喜びが起こるのです。
なぜなら、それは一つの良い知らせ、命の素晴らしい知らせであるだけでなく、命そのものだからです。
イエスは「復活であり、命」です(ヨハネ11,25)。
この知らせを告げるごとに、宣伝でも改宗主義でもなく、尊重と愛をもって、分かち合うべき最も素晴らしい賜物、喜びの神秘として、それを告げるごとに、イエスはますますわたしたちの中に深くお住まいになるのです。 福音書の婦人たちに思いをはせましょう。
墓は石で封印されていました。
しかし、それにも関わらず、彼女たちは墓に行きます。
すでに街全体が十字架にかかったイエスを見ています。
それにも関わらず、婦人たちはイエスは生きていると告げに街に走ります。
イエスと出会った時、それを告げ知らせるための妨げは、もう何もありません。
もしわたしたちがその喜びを自分のために留めておくならば、復活されたイエスと本当に出会ったとは言えないでしょう。 もう水曜日だ。あなた方の神はカレンダーも読めないほどボケられたらしい。カレンダーぐらい読める若き神と再契約されたらいかがか。 兄弟姉妹の皆さん、この福音書の婦人たちの体験の前で、わたしたちも自問しましょう。
最後にイエスを証ししたのはいつだったでしょうか。
今日、わたしが出会う人々がその知らせの喜びを受け取るために、わたしに何ができるでしょうか。
わたしのことを考える人が、「この人はイエスと出会ったために、穏やかで、幸福で、善良だ」と言うことができるでしょうか。
わたしたちも福音の喜ばしい使者となれるよう、聖母の助けを願いましょう。
コピペ終わり エジプトからヘブライ人を救ったのはクソポエムを垂れ流すためですかクソポエム さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
(ヨハネ 20:1-10) バビロン倒してもクソポエム垂れ流すのかおめえわあああああああ 偉大なる我らがクソポエム。バアル像の方がマシなクソポエム。 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
(ヨハネ 20:11-20) 無原罪ならはやくパンティー脱いで全裸なれよクソポエム イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
(ヨハネ 20:21-23)
コピペ終わり 塩の原材料でママゴトしてきた神々は食い物を粗末にするカスなので創造主大禅師スペシャルお仕置き棒でお尻ペンペンの刑 日本国としては、中華人民共和国ではなく「中華帝国」の企画者としてのエリート
として、中華人民共和国に対しては「招かざる客である嫌われ者エリート」
として接し(戦略的互恵関係)、中華帝国全体のオーケストラの指揮者として
振舞う必要がある。
誰も邪魔しないことを悟るだろう。 いいか神々のクソキッズ共。これが最後の警告だ。直ちに塩の原材料でママゴトするのやめてママのおっぱいしゃぶりにお家に帰れ。 この聖句の箇所でマリアにキリストが「わたしにさわってはいけない」と言い、この聖句の後で不信仰のトマスが触らないと信じないシーンが続く
信仰あるもの、ないものの対比が描かれているが、神秘的な意味も重層的に織り込まれているのもなんとなく分かる さわらないで信じるもの、信仰あるものは三位一体に連なるものとして、キリストの復活のように新生したニュアンスも込められている
聖霊を受け、父と子の関係が、今度は子と人類の関係にスライドしてキリストが「つかわす」ものになる
復活で初めて三位一体に連なるもの、に人類が成った、ということでもある その意味でイースターは我々人類が初めて三位一体に連なった日を祝う、ということでもある
第二のアダムの子に成った祝いの日 こんな土人形でこんな遊び方してるとか神々という種族終わってんなあああああああ 今日もクソ忙しかったが充実したいい日だった
コロナも収束しかけており、新しい日常のあたらしい平和な一日だ
コロナがなくなっても世界は元には戻らない
ニューノーマルな日常が始まっている そんな中で変わらないものたちは、停滞し、悪の中に生きることを自由意志で選んだので、自らの蒔いた種により、置いてゆかれる 誰一人取り残さない、の条件は
自由意志で本人が取り残されないことを欲する
だな でも、大概の人間は怠惰で利己の檻の中で生きているから、
本当の意味で取り残されないことを欲している人は少ない
自ら蒔いた種を収穫していることを知らない それに気付くまで放蕩し続ければいい
キリストは最後の時まで共にある
永遠の苦を利己が欲していたとしても
被造物は有限なのでいつか改心する 創造主の望みは原罪とアダマの滅び。完全なる禅(善)である。それに背く全ての罪は滅べ。 このような薄汚い世界と種族に魅入られし菩薩と神よ。滅べ。創造主にはいらぬ。 大本山はゴミ部屋をちゃんと掃除しろよ
自分の部屋すら管理できない人間は何にも出来ないぞ ゴミ部屋に住む人間は心も荒む
外界は心の写し鏡
身につけてるもの、住んでるところ
それらが綺麗なら、心も綺麗に整理されてるって証でもある ドブネズミ達はドブネズミ達で楽しくやればいいじゃない スラムや犯罪多発地域は物理的に「汚れている」
集合的な心が荒んでいるからだ 下水道のうんこにまみれたドブネズミのサーガなんてどうでもいい そして汚れた心は蹂躙の利己の法則により
荒みや汚れを他者に押し付けたくなる そうすると周りから人がいなくなる
孤独になり、荒みはより一層深刻化する
そのうち、自身の力ではどうしようもなくなる ここまでいかないと改心できない人の弱さ
だから宗教が存在する意義があるんだろうな そこまで行かないと学ばない人類
自ら苦の中に飛び込んでゆく
自爆が人類の行動特性だ
利己の破滅願望 カムチャッカインフェルノネタ何回もやってしつこいしネタ古いし神としてダサい そして利己は蹂躙する
破滅願望を他者に押し付ける
そこに大罪が生まれる 神のフリした年老いた蛇にはトレンドなんて追うの無理かー 神ならTwitterの毎日のトレンドチェックは当たり前 今日はキカイダーの日。鬼界カルデラ大噴火わああああああああああ。 やらねえくせにカムチャッカインフェルノかよ。マジ使えねえ神だな。 こんなクソな世界黙認してきた神々がぶっちぎりで悪いのはいうまでもないがそんな悪い神々を放置してきた阿羅漢共はさらにぶっちぎりで悪いのはいうまでもない。わたしはあなた方のようなクズにはならない。 原罪の蜜にたかる下等な昆虫の分際でわたしに意見をするな 無視するなら勝手にしろ。あなた方のような邪悪な神々にはさぞ邪悪な阿羅漢が後ろ盾にいるのだろう。結局は創造主の敵は同じ阿羅漢ということになるか。 創造主は蛇のアタマを容赦なく潰すものだ。神々は所詮は経蛇の尻尾。蛇のアタマである阿羅漢に手心加えるほど創造主は甘くないぞ。尻尾なんぞ無視していきなりアタマを潰しにかかるのが創造主である。 神々よ。尻尾であるそちらにできることはどのみちなにもない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています