【最後の審判が来るまで】神慈秀明会Vol.110【続けましょう】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
「最後の審判が来るまで続けましょう」
だとハルマゲドンを待ち望む宗教と思われるので
「最後まで続けましょう」
と隠語で信者を焚き付けているのです
ピンポーン♪
< あなたの健康と幸せを祈らせてください!!
ハ,, ハ
( ゚ω゚ ;)
/ ヽ
|| | |
|| ||:ハ_ハ:
し| i |J ゚ω゚;): パパ、お断りして...
| || ⊂´):.
| | .| と_つ
. し ヽJ
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
《家族を新興宗教から守ろう》
http://anticult.minibird.jp/shuumei/index2.html
『借金させ高額献金 神慈秀明会は違法』
http://anticult.minibird.jp/shuumei/hanketu01.html
《京都地裁で勝利判決》
http://anticult.minibird.jp/shuumei/img/20071226kyoto.gif
《大阪高裁でも秀明敗訴》
http://anticult.minibird.jp/shuumei/img/20080709kyoto.jpg
神慈秀明会体験談 anti-cult 掲示板へ寄せられた被害の実態
http://anticult.minibird.jp/shuumei/taikendan/taikendan.html
アンチ・カルト 神慈秀明会の概要
https://anticult.exblog.jp/497638/
宗教勧誘に注意せよ!神慈秀明会という団体が、大挙して勧誘
http://excelact.com/Works/shukyo.html
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
◎前スレ
【悪事を暴き】神慈秀明会Vol.109【子供と老人を守れ!!】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1660986062/ ちなみにマジレスすると、人間の形而上の要素はキリスト教的には霊魂で、身体は形而上ではなく、形而下
チリから作られたものはチリに変えるが霊魂は不滅だ
んで、もきっちゃんは医療の身体に対するアプローチを形而上の存在を自由に好き勝手に扱う行為だからダメ、と言っている
薬や手術などは別に人権を侵害していない
合意のもとでなされるから、個の尊厳、自由意志に沿っている
むしろ、駅前で求めてもいないことをやらせろと求めてきて強引に布教をする行為は公共の福祉を阻害し、個の尊厳を毀損する迷惑行為だ
しかも、もきっちゃんは浄霊は神の働きだから治病権が自分にはある、とか宣っとるが、そもそも浄霊が神の働きと「一方的に主張してるだけ」で、仮に違った場合、自分の主張により、自分が自然法則に反することになることに気付いていない😂
また、そもそも自然法則とは形而下の事柄に適応されるものだから、その意味で医学の治療は自然法則に沿っているわけで
ほんと、いろいろおバカすぎるな
大本はこのおバカのどこに何を期待して重用してたのだろうか…(^_^;) >>509
凄い人ですね
文系ならもう少し論理的な文章かけるぐらいの理性は欲しかった😢
>>527
沼ですね😂 >>532
少し読んだだけで
さる知恵ってのが
わかりますね >>529
「病気を治すのは、神だ。医療は人間の分を超えた行為」ってか
原始人に戻れというんだな さすがに、こんなのを信じて医療拒否する時代じゃあるまい >>523
> もきっちゃんは本当に大本の幹部クラスだったのだろうか…
大本の文芸誌に、短歌や俳句を投稿する常連だったので注目された
東京で支部長をやってたが、東京支部長ではなく、
大森の自宅に人を集めて「大森支部長」を
名乗ることを許された
勝手にお守りを作って販売したり
不正行為をするので評判が悪かった
幹部クラスといえるかは微妙(笑) 『巨人出口王仁三郎』著者 出口京太郎
P105
〇おやじは大きかったなあ
このころ、東京の大本大森支部長をしていたのが岡田茂吉である。のちに世界救世教教主となるのだが、この岡田と王仁三郎については、おもしろい話が残っている。
大本ではむかしからお守りを出しているが、いつのころからか、岡田は自分でそのお守りを出しはじめた。自分の支部の信徒に下付したりしていたのだが、そのうち、このうわさが大本の幹部の耳にはいり、けしからんふるまいと激怒した幹部たちは、岡田をむりやり、王仁三郎のもとへひっぱってゆく。こってり油をしぼってもらおう、というわけだったのだろう。
幹部の口々に告げるご注進をひととおり聞き終えた王仁三郎は、やがて、隅のほうで小さくなっていた岡田を前へ手招きした。
岡田は百雷一時に落ちることを観念して、ひたすら平伏した。すると、王仁三郎は岡田の耳もとに口を寄せ、他の者に聞きとれぬくらい低い声で、
「ああいうて、みなが怒るよるからな、みなにわからんよう内緒でやれよ」といったものである。
岡田はいまこうやって一つの教団をひきいてみて、自分の部下でかってにお守りなど出す者が出たとしたら、とてもほっておけるものではない、と語りながら、
「おやじは大きかったなあ」とつくづく述懐している。 岡田茂吉は独立して、教団を起こす時に、出口王仁三郎に報告に行っている。
(昭和10年頃)その時にも、
「お前は一代限り独立して活動することを許す」
と言われたという。
茂吉の死後にどうなるかが、王仁三郎には見えていたのかもしれない(笑) >>535
,,.r'' ゛~~` ''ッ,, ) )
、 ,,,,,,,,,Ω,,,,,,,ヾ. ,.、 / /
ミ ミ゛ 彡三ミ ミ ミ .. | |l l ,´
ミ ミ, _,,,,,.ハ、,,,,,_ ミ ミ. . _-、i::| |ニニii '
、,,,,ツi: ミ´´‘` | |´‘``ミ ミ /,‐ヽヽ`、||
、シ`` i: ,ゞ、 , J レ、 ミ ミ . .( .〉〉/
シ // ミ`l ./\_,/ヾ .ミ "、呼んだ? ./ ノ
ミ/ シ 彡 !trrrrrry| ミ ミ,, ,r'´ ,,、'゛
ミi. / / ' !w`~^' vwv '、ミ ミ 〃 .ミ
.ミ / i: / `^^ \ " 〃 ミ
岡田茂吉(mokichi okada)
(日本 1882-1955) >>542
二代目からは許されてない(;゚д゚)ゴクリ… >>545
> 二代目からは許されてない(;゚д゚)ゴクリ…
茂吉の死後、世界救世教は分裂し、
バリケード作って、ゲバ棒で殴り合う大抗争
神慈秀明会は離脱して献金地獄、裁判沙汰の連発
開祖の死後に分裂するのは宗教団体にはアリガチなことだけど、ここまでメチャクチャな大混乱になったのは他に類を見ない 子孫の四代目・岡田陽一は追い出された
茂吉の死後は、本当にろくなことがない 宗教立ち上げる器じゃなかったんでしょうね…
拠り所になるものが浄霊以外にはないので… 一代こっきりなら
世の中の影響力も少ないとみられたのかも
しんないね
それでは
小山家が成り立たなくなるから
存亡をかけて
独自路線をつくろうとした
結果
借金まみれの信者をふやしただけ ヒーリングだとダスカロスがいるけど、謝礼は受け取らない、で徹底してたし、周りにひとが集まってきても、宗教法人ではなく、真理の探究が目的のサークルだし、そのサークルに入る際には自由意志で受け入れないといけない誓約があるし、経年で立ち上げた組織がどうなるか、は埋め込まれたDNAやシステムが規定する もきっちゃんとは大違い
http://daskalos.jp/101researcher/111daskalos.html
「ダスカロス」ことスティリアノス・アテシュリスはまだ日本ではあまり知られていませんが、スピリチュアリズムに関わる人々の間では「ザ・ヒーラー(世界一のヒーラー)」、「20世紀における最も偉大な霊性の教師」と呼ばれ、最大限の尊敬を集めている人物です。
彼は生涯を通じて無償で多くの人々を癒し、無条件の愛を示し続けたヒーラーであり、霊的な真理を教え続けた教師でした。
ダスカロスは1912年、地中海に浮かぶキプロスという島国に生まれ、95年に亡くなるまで首都ニコシアにほど近い、ストロヴォロスで暮らしていました。
自分の名前が知られないように努めていた彼は生前から、周囲の人々にただ「ダスカロス」 ( ギリシャ語で「先生」を意味する ) と呼ばれていました。
ダスカロスは幼少期から目に見えないガイドと会話し、またごく自然に他人の考えていることがわかったといいます。卓越した意見を述べて大人を驚かせることも多く、小学校ですでに先生たちの学問上の問題を助けることもあったそうです。 すべての過去生を覚えていたダスカロスは、現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、トルコ語、ラテン語、ロシア語、英語、フランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラム語、そして古代エジプトの象形文字など数多くの言語に通じ、イギリスに留学した際には、哲学博士と神学博士その他の学位も取得しています。
また、キリストであるジョシュア・イマヌエルが生きていた時代に最年少の弟子だったダスカロスには、生涯を通じてヨハナン ( 福音書の著者であるヨハネ ) が霊的なガイドとして連れ添っていました。
ダスカロスは立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生するなど、奇跡のようなヒーリングを行なうこともできました。しかし、ヒーリングは聖霊によってなされるもので自分はそのチャンネルにすぎないと考えるダスカロスは、大勢の人を癒しながら決して謝礼や治療費を受け取ることがなかったといいます。
彼の家はそんな噂を聞きつけた人であふれ、時には一日に80人以上の人々が癒しを求めてやって来ることもありましたが、ダスカロスはどんな時も拒むことなく人々を受け入れ、“神聖なる計画”の一部である本人のカルマが許す限り、その人は必ず癒されたそうです。 彼が行なう驚異的なヒーリングを目にして「奇跡だ!」と騒ぎ立てる人も少なくありませんでしたが、そんな時、決まってダスカロスは「奇跡でも何でもない。自然の法則を知っていれば、誰にでもできることなんだ」と語り、また人々が感謝しようとすると、いつもこう言って遮りました。「私ではなく、神に感謝してください」と。
癒しを求める人だけでなく、ダスカロスのもとには世界中から様々な人々が教えを求めて訪れました(ここでは実名を挙げませんが、多くの著名な霊的リーダーたちが欧米から彼のもとを訪れました)。しかし、こうした“教え”に関しても、ダスカロスは「自分は単にヨハナンや他のマスターたちのチャンネルに過ぎない」と強調していました。
また口ぐせのように「真理の探究者にとって、名声とは罠なんだ」と語っていたダスカロスは誰にも自分のことを書かせず、インタビューも受けつけませんでした。
こうして彼は細心の注意を払って脚光を浴びる危険性を避けながら、83年の生涯を他者への愛に捧げ、市井の人として生きたのです。 そんなダスカロスが、取材の申し出に「(ヒーリングや教えについて)私の手柄にしないという条件を守るなら」と名前を伏せて書くことを許可した唯一の相手、それが過去生からの縁があったキリアコス・マルキデスでした。
アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)は85年に出版されると欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えました。
『メッセンジャー』以降もマルキデスはダスカロスの本を2冊出していますが、このシリーズには教えだけでなく、ヒーリングや体外離脱による奉仕活動の様子、崇められることを嫌い、誰に対しても親しい友人として接していたダスカロスの姿や、ユーモアたっぷりの人間味あふれる素顔が生き生きとした筆致で描かれています。
ダスカロスは第一級の覚者であり、真のヒーラー、魂の医師でしたが、中でも人生の関心事は周りの人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある人々の手助けをすることだったといいます。 そのため、彼は定期的に「サークル」と呼ばれる勉強会を開き、“旅立つ準備のある人々”を対象に、自由な雰囲気の中で真理について、聖霊との共同作業であるヒーリングや精神修養の具体的な方法について、やはり無償で教えていたのです。
このサークルは彼が亡くなった今も世界的に広がり、欧米を中心にたくさんのサークルが、ダスカロスの遺した著作や講義のテープやビデオを使っての自主学習を続けています(ヒーリング同様、天から受け取ったものは無償で与えるべき…、というダスカロスの教えに従って、これらのサークルも無償で運営されています)。 また、ダスカロスは生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めませんでした。それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからでしょう。
ダスカロスは矮小化された、特定の宗教的イメージがつきまとう「神」という言葉も極力避け、“絶対無限の存在”という表現を好んで使っていました。真理の探究には宗教や民族の違いはもちろんのこと、時間や場所さえも超越した愛と理性、そして“神聖なる計画”を理解することが重要だと、彼は考えていたのです。
ダスカロスはよく、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思います。
ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くうエゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めました。多くの人々にアピールする意識の覚醒、ヒーリングや霊的能力の修得といった華やかな表の部分ではなく、奥深く地道な ― だからこそ確かな力となる ― 真の霊的教えの実践を説いた教師、それがダスカロスだったのです。 ダスカロスは7歳のときにヨハナンから<7つの約束>を授けられ、その導きによって自分の学校の先生たちを相手にサークルを始めたといいます。
<7つの約束>を読むと厳しい戒律のような印象を受ける人がいるかもしれませんが、これは戒律でも、破ることが許されない誓いでもありません。ダスカロスはサークルに入門する生徒たちを「真理の探究者」(Researchers of Truth)と呼んで、7歳のときに自分が授けられたものを、彼らと分かち合いました。それは、真理の探究者ならば心に刻むべき“約束”、それが<7つの約束>だと考えたからなのでしょう。
<7つの約束>の中でも、とりわけダスカロスが重要性を強調したのが、7つめの約束である「内省」です。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも賞賛することもなく、第三者として客観的に点検する。不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる。これを習慣化することによって、「感情と思考をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは考えていたのです。 こうしたダスカロスの教えの多くは、かつてキリストが12人の弟子に与えたものと同じ、<エソテリック・ティーチング>(秘儀的な教え)と呼ばれる内容だといいます。
<エソテリック・ティーチング>とは、古代エジプトの時代から高位の僧だけに脈々と伝えられた秘儀・秘教です。なぜ、こうした教えが一般の人々に長く隠されてきたというと、霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうからだとダスカロスは語っていました。
(どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合のダメージや“負債”はいっそう大きくなってしまうのです)
ダスカロス自身も、修養を重ね、着実に意識の覚醒に向かいながら大きく階段を踏み外した人々を、実際にたくさん見てきたのだと思います。
そして、そんな彼らの姿に胸を痛めていたからこそ、「内省」の重要性を説き、<7つの約束>によって日々エゴイズムを減らしながら、急がず一歩ずつ確実に意識の階段を昇っていくように警笛を鳴らし続けたのでしょう。 ダスカロスには学生時代に影響を受けた
小学生の頃以降、キリスト教からは離れたが、キリスト教にもどる一番のきっかけを与えてくれた人でもある ダスカロスは確か正教会所属だったはずだが、彼の活動はキリスト教会とは関係がない
カトリックの観点だと、ダスカロスはニューエイジに分類される
が、正教会の中でもダスカロスは有名で尊敬されていたらしい
個人的には善いニューエイジに分類している 彼のような人を知っていると、岡田茂吉のような人物は下品な俗物にしか見えなくなる
秀明会の方々は彼を調べてみて、岡田茂吉と比較してみて欲しい また、世界救世教がなぜ戦争状態になり、ダスカロスのサークルはそうならなかったか、についても考察してみて欲しい
戦争が起きるのは利己心の種がDNAとして受け連れられているから
ダスカロスのサークルも娘さんが継いでおり、世襲だ
しかし、利他的な動機だけで作られた、組織化を拒否するDNAを植え付けられたサークルは戦争が起きることはない これらは、「予め設計」されるもの
その設計への解像度の高さが何かの活動を始めた人の「器」だ
岡田茂吉は一代しか続かなかった理由は器の小ささにある ひょっとして、「サティ」という名前はダスカロスに由来? いや、名前の由来は作曲家のサティです
家具のような存在を目指そう、という願望の表れですw 宗教スレ一、バトってるので例によってがっつり名前負けしております😂 あれ?
Wikipediaで確認したら、ダスカロスの
本名はスティリアノス・アテシュリス? 「スピロス・サティ」ってのは通称だったのか
ずっと勘違いしていた😅 鹿野園なら、
「遍計所執性、依他起性、円成実性。
どうだ、俺ってスゲー物知りだろ?」
とかなんとか、タンスに向かって
ブツブツ威張りそうだ そうですね
んで、タンスに蹴りを入れてきて
痛てーーーって自爆するパティーンw 鹿野園にしかできない必殺技
自分の延髄に回し蹴り😂 禁欲
https://ameblo.jp/miyatatata/entry-11396992572.html
昔から立派な宗教家たらんとするには、禁欲生活をしなければならないように想われ、それが真理を悟り、魂を磨く最良の方法とさえ思われていた。しかし私は反対である。以下判りやすくかいてみよう。
そもそも、森羅万象一切は人間のために存在している事である。見よ、春の花、秋の紅葉、百鳥の囀り、虫の啼く声、明媚なる山水、月の夜の風情や温泉等々は、何が故に存在するのであろうかという事を考えなくてはならない。 いうまでもなく、神が人間を楽しませるために造られたものでなくて何であろう。また人間が謡う美しき声や、舞踊や、文学芸術等も、もちろんそれによって当人も楽しみ、他人をも楽しませるのである。
それのみではない、人間生活においてあらゆる美味なる食物はもとより、建築、庭園、衣服等も必要のためのみではない。
より娯しむべき要素が含まれている。飲食を楽しむことによって、栄養となり、生命が保持される。
住居も衣食も必要だけの目的であれば、甚だ殺風景のもので済む訳である。子供を造る事も必要の目的のみでない事は言うまでもない。 以上のごとく大自然も、人為的のあらゆる物も、一方それを楽しむべき本能を神が人間に与えられている以上、それを娯しむのが本当である。
それを拒否し、生存上必要のもののみに満足するという禁欲主義は、深き神の恩恵に対する背反的考え方である。また他の方面をみる時、今日までの特権者が利他的観念に乏しく、自分や自分一族の者のみの快楽に専心し、社会や他人を顧慮せず、衆とともに楽しむという、人類愛的思想の発露が余りにもなかった。 それは神の恩恵を独占する訳になろう。この意味においても、私は富豪の大庭園を開放し、美術品を公開し、衆とともに楽しむべきが神慮に応えるゆえんであると思う。
翻って想うに、いにしえの聖者が粗衣粗食極端なる禁欲生活をなし、「祖師は紙衣の五十年」的生活に尊き一生を捧げたという事は、神の恩恵に叛く訳になろう。
それに気付かない世人は、宗教家を観る時、禁欲者でなくては有難くないように思う傾向があるのは遺憾である。 私は前述のごとく、禁欲に反対であるから普通人と同様の生活を営んでおり、これが神意に添うものと考えている。従って地上天国とは、人類総体の生活が向上し、芸術その他の清い楽しみは大いに発達する世界をいうのである。 また真善美という事は、真とは偽りのない事であり、善とは正しい行であり、美とは美しい事であるから、禁欲生活においては善はあるが、真と美がないばかりか、返って文化の進歩を阻止する事にもなるのではないかと思う。彼のインドの社会が精神生活のみに偏した結果、今日のごとき文化に遅れ、沈滞せる国運を来たした事を考えるべきであろう。
(岡田茂吉師御論文です) もきっちゃんは森羅万象は「人を楽しませるため」にあると語る>>584
衣食住も同じである、そして性的な行為もそうである、と語る
そして、その本能(欲望)は神が与えたものなのだから、楽しむべきだ、と語る>>585
それを拒否するのはむしろ神に背いているとまで言っている
一方で、一人がそれを独占するのはよくないので、庭や美術品は開放しよう、自分のように、とも語っている>>586
従って、自分が俗世にまみれているのは神に反する禁欲者に反対であるからだ、と語っている>>587
その考え方が正しいのは経済発展していないインドを見れば明らかだ、と語っている>>588 成長の家カルトが言ってる内容と全く同じだ(^_^;) 森羅万象が「人を楽しませるためにある」という発想はどこからきたのだろう
キリスト教ではない
キリスト者では自然は善く管理監督する義務がある、といった発想 また、この「楽しませる」に巧妙に欲望を混在させている
享楽の文脈でこれは受け取る内容なのは、生殖にも言及していることで確認できる そのくせ>>588では「清い楽しみ」と語っている
欲望を「清い楽しみ」とすり替えており、それに抗する禁欲は「神に反する」と善悪の転倒のレトリックに置き換える 実際は欲望と禁欲の間には幅がある
一般的には利己的な欲望はネガティヴなもので
利他的な欲望が清らかなものだ >>594に書いてある通りで、もきっちゃんの「楽しみ」は欲望側の楽しみを指す そして、利己的な欲で所有したものの一部を外に開くことで、他の否定される権力者との違いを語っているが、それはよく否定される権力者と自身が同じである、と告白しているに等しい そして、それらの行為は「禁欲に反対するから」と語るが
禁欲に反対し、かつ利他的であることは誰でもわかる話で、
禁欲に反対し、かつ利己的であることの肯定には当たり前だがならない しかも、その肯定を「インドの経済的発展状況」に準えるところで肯定できると思っているところを見る限り、発想が俗物かつ、形而下の冨に軸足を置いていることも分かる 生長の家カルトが欲望マンセーレスをキリスト教スレで執拗にしてくる理由の一つが垣間見れた気がする
あれは、王仁三郎の偽悪の教えを突き進んだ弟子達が拡げたものだ >>592
> おそらくこのレトリックは大本のそれなのだろう
いやいや、大本も生長の家も「肉食をするな」という禁欲的な教えですぜ
そんな大本で、1人だけ肉をバリバリ食べて浮きまくってたのが岡田茂吉
「菜食主義の西洋人を救うのだ」とか、意味不明な理屈をつけてた😅 谷口雅春「聖経 天使の言葉」より
天使答え給う――
欲望は
肉体維持発展のための動力にして、
生物共通の〝炎〟なり、
〝生命の炎〟なり。
これなくして生物
地上にて生活すること能わず。
これなくして
人間も肉体の維持・発達為すこと能わず。
されど汝ら、
人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、
地上に神の栄光現すことなり。
肉体は神性表現の道具に過ぎず、
欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
神の栄光支える〝生命の炎〟なり。
炎は制御の巧拙により
善悪いずれの結果も引き起さん。
ジェットエンジンの炎正しく制御されれば、
遠方の目的地に速やかに到達せん。
されど炎、
エンジンの制御を超えて爆発に到らば、
死と破壊たちどころに襲来せん。
(つづく) (つづき)
されば汝らよ、
欲望の正しき制御を忘るべからず。
欲望を
神性表現の目的に従属させよ。
欲望を自己の本心と錯覚すべからず。
欲望燃え上がるは、
自己に足らざるものありと想い、
その欠乏感を埋めんとするが故なり。
即ち、
欲望は自己の〝神の子〟なる本性を知らざる迷いより生ず。
汝らは神の子なり、仏子なり。
〝生命の炎〟自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
しかして
内部理想の実現に邁進せよ。
そのとき、
自己内奥の〝本心〟深く満ち足りて、
「善き哉、善き哉」と
神の御声汝らに囁かん。
かくの如く人間の意識高まりて
自己内奥の神を〝我なり〟と観ずるに到らば、
自然と人間との戦いは消え、
大調和の秩序地上に顕現せん。 >>604
> いやいや、大本も生長の家も「肉食をするな」という禁欲的な教えですぜ
>
いや、「禁欲的な教え」は言いすぎだったな
「欲望を制御しろ」とは言ってたけど、「禁欲しろ」とまでは言ってない
ただし、「肉を食べるな」は大本の特徴で、生長の家にも受け継がれた
それを破って浮いてたのが岡田茂吉 大本の開祖・出口なおは、厳しい苦行を好む禁欲的な人だった
それに対して、なおの養子の出口王仁三郎は、
良い悪いは別にして、とにかく豪快でおおらかな人
「苦行には意味がない」と主張して、出口なおと対立した 「苦行には意味がない。お釈迦様は苦行をヤメて、スジャータの粥を飲んで悟った」
これが大本系の伝統的な思想になった
谷口雅春、高橋信次、大川隆法、深見東州
大本系の教祖はみんな、「苦行には意味がない」と力説する人ばかり でも、極めて欲望肯定的なのは岡田茂吉だけ
「快楽だけでいいんです」なんてのは、岡田茂吉だけの独特な思想😅 つまり、まとめると、こういうことになるでしょうな
出口なお・・・苦行を重視する、禁欲的な教え
出口王仁三郎・・・「禁欲なんか意味がないから止めよう」と主張して、出口なおや古参の大本役員たちから怒られた
岡田茂吉・・・欲望を積極的に肯定し、「肉を食べて西洋人を救うのだ」と主張して、出口王仁三郎からは大目に見られていたが、古参の大本役員たちから追い出された 谷口雅春・・・「禁欲には意味がないから止めよう。でも、欲望は抑えよう」と主張し、「不苦不楽の中道こそ、お釈迦様の教え」と説く
高橋信次、五井昌久、大川隆法・・・「不苦不楽の中道こそ、お釈迦様の教え」と説く 小山美秀子・・・岡田茂吉の快楽主義思想を否定こそしなかったが、男の浮気が許せなかったことが生前の言動から推測される 小山荘吉・・・祇園の芸者に隠し子を産ませて、小山美秀子と対立した
小山弘子・・・思想内容は不明だが、男の浮気には厳しかったと推測される
小山玉男・・・愛人に子供ができたが、小山弘子に堕ろさせられたというウワサがある。真相は不明 >>613
岡田茂吉のやったこと
というのを
真っ向から否定できないのは
ラピスもおんなしのようだ ラピスは快楽主義者でしょ
発展場で男を漁ってたらしい そういえば
快楽主義でしたな
飛行機に乗りまくって
機内食を食いまくりたい
とか言ってたし
タバコはいい
とか言ってたし >>619
> 飛行機に乗りまくって
> 機内食を食いまくりたい
そこがラピスの奇妙なとこ
「スペインに行って、本場のパエリアを食べたい」とかじゃない
「飛行機に乗って、機内食を食べたい」と行ってた 海外旅行の話をよくしているが、
行きたい先は「カタールのハマド国際空港」とか
空港ばっか😅 Youtuberの雨女は
よく飛行機でとんぼ返り旅行してる
そんだけでかえっちゃうの?
的な
竜女だから
空を飛びたがるのだろうか わたしは
せっかく
飛行機で旅行するなら
色々巡ってみたい どこかに行きたいわけではなく、飛行機に乗るのが目的なんだな 色々巡るほうが
帰って楽しめないのかもしんないな
パッと言って
温泉で1晩泊まって帰ってくる
みたいな
楽しみかたも
いいかもしんないね そんなのが楽しいのなら
新幹線で
端から端北まで
往復するだけで
運賃がかからない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています