おはようございます〜。^^
>>434
>またホロコーストや東京大空襲、原爆などは、ただ単に戦争技術の向上によって
>被害が拡大したというだけのことではありません
>これらの虐殺はすべて「計画的に」なされています
>つまり数十万、数百万の人の命を奪うことを想定して行われてたものです
>わたしはこのような計画的な大量虐殺に、人間の悪や罪の大きさを見ます

atheistさんのおっしゃるとおり世界大戦は国の総力を挙げての戦いでした。
しかし近代の戦争は単純に全ての民の計画的虐殺を目的にはしていないと思います。
戦時国際法なるものがありその中で戦争時の無差別の虐殺を禁止しているからです。
(ただしナチスによるユダヤ人大虐殺は計画的大量虐殺だと思います。)

私が注目したいのは、戦争の規模ではなく、人の残虐性です。
キリストの時代に荒野の洗礼者ヨハネが殺された記述があります。
「人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。」

宴会の席で、少女がヨハネの生首を受け取り、それを母親に渡したというのです。
たぶんこの時代は、食事中に少女が生首を見ても平然としているような時代だったのでしょう。
現代では考えられないことです。
このような時代に比べたら、現代がいかに倫理的に進んでいるか分かると思います。
(まだまだ未完成状態ではありますが。)

>この過程でなんの「成長」も与えられることなく
>無慈悲に救いもなく死んでいった大量の個人の問題です
>わたしがこれを紹介したのはかけがえのない個人の尊厳がいかに戦争の中で
>無慈悲に、かつ無意味に蹂躙されていくかを死にゆく者の立場から克明に描いたものだからです
>わたしたちはこのような悲惨を体験していませんが、このような創作物などを通じて死にゆく者の心情を
>疑似体験することはできます
>そのうえで、「悪の存在が善への成長の糧」というテーゼがまだ意味を成すのか、お聞きしたいと思います

無慈悲に、かつ無意味に蹂躙されて死んだ人の生きざまは、意味がなかったのでしょうか?
わたしは、その生き様には意味があったと思います。

その人たちには、まことに申し訳ないのですが、
その生き様は、人の心にそういうことを二度と起こしてはならないという決意を与えてくれました。
それを象徴するのがキリストの十字架です。
その生き様に私たちは感謝しても感謝しきれません。

「悪の存在が善への成長の糧」と書くと、悪(罪)の存在を糧として、
喜んでいるように受け取られてしまいますが、
悪(罪)の存在自体を喜んでいるわでなく、
悪(罪)に対しては悲しみ憎みます。

人は悪(罪)に対して悲しみ憎むからこそ、
逆に悪(罪)をなくそうと必死で努力します。
悪(罪)が大きければ大きいほど、人の善への渇望も大きくなります。

「悪の存在が善への成長の糧」という表現が良くなかったです。
「悪の存在を憎む心が善への渇望」という表現に変えたいと思います。