曹洞宗(そうとうしゅう)
坐禅(ざぜん)
ただ坐(すわ)る。
無我の境地
ボーッとしているだけで幸せ。
色即是空(しきそくぜくう)、
空即是色(くうそくぜしき)。

弁道話(べんどうわ)
【原文】
諸仏如来ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為の妙術あり。
これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
はなてばてにみてり。
一多のきはならむや。かたればくちにみつ。縦横きはまりなし。
【現代語訳】
諸仏如来は、皆共に優れた法を人から人へと単伝して、仏の悟りを証明してきたが、
この悟りを証明するのに、最も優れた無為の法がある。
この、ただ仏から仏へと授けて、誤りのない法とは、自受用三昧(真の自己と一つになること)であり、それがその標準である。
この三昧に遊ぶには、端坐して坐禅することが正しい門である。
この自受用三昧の法は、すべての人々の身の上に豊かに具わっているのだが、
修行しなければ現われず、証明しなければ得ることはない。
この法は、手を放せば手に満ちる。その分量は多い少ないという問題であろうか。
語ればそれは言葉は口に満ちて縦横自在で窮まりない。

涅槃経(ねはんきょう)に
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
という言葉があります。
一切の衆生(しゅじょう)は悉(ことごと)く仏性を有している。
生きとし生けるものすべてのものの中に仏性が存在する。
この言葉は非常に有名な言葉で、「山川草木悉有仏性」と言われることもあります。
山や川、草や木にも仏性が宿っていると解釈されることが多いです。
しかしながら、曹洞宗(そうとうしゅう)開祖道元(どうげん)はその考えは間違いだと言うのです。
「一切は衆生なり、悉有(しつう)(全宇宙)が仏性なり」
と解釈しました。
つまり、全宇宙が仏性であって、その中に衆生が存在すると考えたわけです。 
山や川も衆生であり、仏性の中で生きている。
そう考えました。