釈尊、いわゆるお釈迦様が国を棄てられた。そして長い間、自分を犠牲にして修行に励まれたというのは、何が目的であつたかというと、ただ単に見性をするということが、ひとつの大きな目的だつたんですね。

ところが、見性にもいろんな段階(ランク)があるようにいわれております。「ランクがある。だから、あの人の見性はどうだ」とか、あるいは最後には、「そんなもの、あつてもなくても同じことだ」というふうに見性まで否定をしてしまうような、非常に寂しい状態になつておりますけれども、決してそういうものではありません。

必ずそれがなければ、修行というものの土台が見つからないわけです。まず見性して自分の本当の姿を見届ける、そういう定義です。

先ほどの坐禅の定義と同じことで、その定義がはつきりしませんと、「見性なんていうものがあるだろうか、そんな悟りなどというものがあるだろうか」という、そういう疑いをもって修行をしますから、なかなか修行が成就しないということが出来てくるわけです。
(原田雪渓、『自我の本質』pp.174-175)