>>370>>375
ヘレニストの女弟子として新約聖書に記名があるのはタビタだけでも
イエスの刑死から墓場に至るまで付き添っていたのは女性たちであること、
パウロがコリント教会と対立した際も女性視点で読み解くと
そこには女性信者たちの活躍が陰画的に読み取れるということなどから
極めて初期の段階から一貫して宣教に大きな役割を果たしたのは女性たちだと推測できるわけですね

コルネリオの神については、各注解、解説もユダヤ教の神と考えていて
それはヨセフスの記述からも間接的にサポートされる、ということですね


さてルカ19章の冒頭部ですが、取税人ザアカイのお話ですね
当時は取税人というだけでローマの手先としてユダヤ民衆から金を巻き上げる罪人と扱われていた
わけですが、2節にあるようにザアカイは「金持ち」なので、おそらくは相当民衆に恨まれていたと
思われます

イエスはその「罪人」の家に敢えて泊まると言っているわけですから
当然民衆の反感を買うことになるわけですが、これは「病人や罪人のために来た」というイエスの
一貫した姿勢だったのでしょうね

悔い改める罪が大きいほど、神の喜びも大きいというのは、放蕩息子の喩えや
迷える羊の喩えなどでも同様のテーマになってます
イエスの視線が社会的弱者や罪人に向けられていたことがよく分かります
10節の「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」という言葉が
このエピソードのポイントを的確に表していると思います

金持ちの青年の例では、永遠の命がほしければ
財産を(すべて)売り払って貧民に施せと言ったイエスですが
取税人のザアカイに対しては、財産の半分を貧民に施すというザアカイのことばに
「救いがこの家に来た」と首肯しています
これは律法をすでに守っていた「義人」の青年と、「罪人」のザアカイの差ということでしょうか?
救いへと至るベクトルの問題で、ザアカイのほうが罪の悔い改め、心の向きの変更ということにおいて
大きな転換であったからでしょうか?