前スレ885他 ハゲ先生

「殺害の息をはずませながら」というのは一種の誇張表現ということですね
パウロのダマスコ行きは事実だとしても、ユダヤを超えた地域での逮捕権限は疑わしいので
この記述の信憑性は高くないということですね
また田川氏によると、すでにダマスコにはヘレニストの宣教の結果として相当数のキリスト教徒がおり、
12使徒を中心とする異邦人への宣教は鵜呑みにできないということですね

パウロの回心は日射病による幻影が元、ということですか
わたしは実際に回心はあったのだろうけど、日射病かどうかは別にして
ある種の神秘体験(変性意識)によるものだろうと思います
それを宗教的・神話的に「味付け」して書いたのが使徒行伝じゃないかと思います

使徒たちの宣教以前にヘレニストの女性たちの活躍があったということですが
これは使徒行伝以外では、どのへんで推測されるのですか?

さて10章はペテロの幻視とコルネリオらの洗礼の箇所ですが、要点としては異邦人も洗礼可能ということを
コルネリオとペテロの逸話で語っている、ということだと思います

ペテロの幻視は、ユダヤ教の食事規定に拘るな、という幻視だと思ってましたが
この章では28節にあるように、人間についての比喩として語られています
異邦人への伝道、異邦人への洗礼を根拠付けるための話なのでしょうね
ペテロの逸話を通してヘブライストの偏狭さを批判し、ヘレニストの立ち位置を正当化しているのだと
思いました

わたしはイエス自身は自身の宣教の優先順位をもっていたが、弟子たちを通じて
救いは万人に及ぶと考えていたと思うので
ヘレニストの立ち位置のほうがよりイエスの立場に近いと考えています

ここでの質問はコルネリオに関するものです
22節でコルネリオは「神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている」人物と紹介されていますが
ユダヤの全国民に好感を持たれているということは
コルネリオは洗礼前にユダヤの神をすでに敬っていたように読めます
しかし割礼も受けていない異邦人ですから、この時点でユダヤ教徒であったとは考えられず
この時点までコルネリオが奉じていた神というのは具体的なユダヤの神(ヤハウェ)というよりも
もっと抽象的な神ということになるのでしょうか?