>>813
これは面白い説ですね
一般にはイエスの復活を経験した十二使徒たちを中心に原初的な形で宣教が始まり、
のちにイエスの弟ヤコブや、さらにはパウロを加えてヘブライストとヘレニストの対立を経て
徐々にパウロに中心を移してキリスト教が成立していったように描かれると思いますが
むしろそういった「大御所たち」ではなく、無名の女性信者たちの家庭教会からキリスト教は始まった、
という考えなんですね
これは少なくともわたしにとっては新しい視点です

>>814-815
「誤魔化す」と「別にする」ではえらく違いますね
アナニヤ夫婦の献金と直後の死が史実だとすると、田川氏の推測は合理的だと思います
わたしはさすがに信者が献金ネタで殺人を犯すことはないだろうとは思いますが
たしかにルカの記述ではまるでペテロが非難したからアナニヤたちは死んだように読めますね
つまりは使徒の権威付けとその権威による脅しが含意されているように読者が感じたとしても
おかしくないような構成になっています

>>822
ふたりともヨセフスに言及されているので史実と考えられるということですね
ただ時代的な面などでガマリエルの引用とそれを利用した擁護は、やはり創作だろう、と


さて今日のマルコも短いので簡単に感想を述べます

盲人の癒しの箇所で、ここではイエスは「ダビデの子」と呼ばれています
これは当時のユダヤ民衆一般に流布していた政治的色彩の濃いメシアへの期待に沿って
人々はイエスを捉えようとしていたことを示唆しているように感じられます
この期待が、のちに十字架の「敗北」によって失望へと変わっていくことになるのだと思いますが
新約聖書で語られる贖いのメシア像はこの「敗北」を正当化するための初期教会の神学的創作だと
先生はお考えですか?
わたしはそういったところもあったかもしれないけれど、基本的にはイエス自身が自覚的に
受難に向かって歩みを進めていたと考えているので、贖罪のメシア像はイエス自身の神学とも
多分に重なっていたのだろうと考えています