>>113
いよいよ、満を持しての神様の登場ですね
たしかにこれまでのエリフの弁は神様登場のための前座として挿入されたような趣です
神に対するヨブの言があまりに苛烈で冒涜的だと思った後代の編集者が
神の計り知れない偉大さを強調し、三人の友人の反論では不足していた反論を補ったような感じですね

さて37章はエリフの最終弁論、そして38章からがいよいよ神様のことばですね

37章ではエリフが最後に森羅万象を司る神の偉大さを再度強調し
そんな神のなせる業のからくりをヨブは知らないし、できもしないのだから
無駄口は止めて、神のくすしき御業をよくよく考えよ、みずからを賢いと思うような者を
神は顧みられることがないのだから、と主張しているようです

38章では、ヨブだけでなく読者も待ちに待った神様のことばがついに語られます

まず2節でヨブの弁を無知なることばと断じ、神の人知を超えた計りごとを人の身にすぎぬヨブが
語ることを強い口調で戒めています
4節から11節までは創造時のことを語り、それは誰の業かとヨブを詰問します
12節からは日々の自然の運行をすべて司っているのは誰なのかと、さらにヨブに問いかけます
単に大きな自然現象を語るだけでなく、39節-41節に見られるように、ひとつひとつの些細な自然の
営みに細かく配慮する自らの姿も語ります
この箇所は、種も蒔かず、借り入れもせず、納屋も持たないカラスさえも神は養っている
と語る福音書のイエスの言を彷彿とさせます

今回の質問は38章5-6節の「測りなわを地の上に張る」「その土台」「隅の石」という箇所です
雰囲気はなんとなく分かりますが、これら具体的に何を指しているのでしょうか

38章は、壮大かつ精妙な自然の営みに対する古代人の驚嘆が目に見えるようです
そしてこのような自然を司る神に対する畏敬の念が如何程のものであったのかも、よくわかります
ヨブは自身の身に起こった不条理な苦難の解を求め、神に問いかけましたが
神はそれに直接答えることなく、局所化されたヨブの認識が如何に限定された認識であるかを示します
これは納得できるかどうかは別として、一神教における不条理に対する最終回答なのだと
改めて思いました