ネトウヨって言葉が云われるようになって久しい。
それが日本を取り囲む様々な危機への危機意識の萌芽にしても、今ひとつその指向性って云うのが見えない。

で、共時性って云うのがあるのかもしれないけど、いわゆる戦前の京都学派の指向性というのものを再検証する必要があるんじゃないのかな?
それは決して戦争賛美や讃歌、過度の民族主義ということではなく。

以下は西田幾多郎がその晩年の論文で論じた国家論ですけどね。

 >国家とは、それぞれに自己自身の中に絶対者の自己表現を含んだ一つの世界である。
 >故に私は民族的社会が自己自身において世界の自己表現を宿す時、即ち理性的となる時国家となるというのである。
 >此の如きもののみが国家である。
 >かかる意味において国家は宗教的である。

明治になって西洋との出会いから西田哲学が生まれてきたのは間違いないと思うんです。