>>179鹿野園 
ザックリいうと、「離念」は鏡(菩提)に積もる塵(妄念)を払いましょうって立場で、「無念」はそのように妄念を払うという、つまり、払うものと払われるもののという事自体が二元論的であって妄想だ、って所の様です。



なるほど、禅宗ではそ云う議論があるんですね、ヨガでは【 離 念 】に相当するものに、【 止 念 】があります、

離でも止でも、そこには主体があって、念は対象(二元)ですよね、その意味で【 無念・無心 】が主体(一元)になるのは明らかだと思います。