私たちは元来仏である。仏と凡夫の違いは、水と氷のようなもので,

氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。

私たちは自らが仏であることを知らず,それを遠くに求めている。なんと儚いことか。

ちょうど水の中で、のどの渇きを訴えるようなものである。

裕福な家を迷い出て、困苦しているようなものである。

六悪道を輪廻する原因は,自己への深い妄執と分別心のため,己が己に迷っているからである。

分別に分別をかさね、妄執に妄執をかさねて,いつ迷いの世界を離れるのか。

大乗の坐禅のすばらしさは、とても言葉ではあらわせない。

布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)

念仏,懺悔など善行の根本は、みな坐禅(無心)に帰する。

たった一度の坐禅(無心)の体験で、過去に犯した全ての罪が消え去る。

六悪道などどこにもない。浄土は今,目前にある。 

この大乗の教えを聴いて、仏の教えに出会えたことを喜び、 

その教えに随って生きてゆく人は,多くの福徳を得るであろう。

いわんや自ら坐禅を行い,無心を体験して自己の本性に気付けば,

それは何の実体もない空であるから,もはや、ああこうの分別の世界,
妄執の迷いから遠く離れることができる。

仏と自己が本来一体であったという,大乗の門が開けた。それは分別に分かれない真っ直ぐな道である。 

坐禅によってこの身を空にした,その「無の身」を体とすれば、その行為のすべてが真理を離れない。

坐禅によってこの心を空にした「無の心」を心とすれば、その行為はすべて教えの姿,真実の姿となる。

世界と自己が一体になった三昧の世界のひろやかさ。
その三昧の大空には仏の智慧の光が、月のように光り輝いている。

ここに到ってなにを求めるのか,悟りは今・ここ・自分の上に現れている。  

ここが極楽浄土であった。この自分が,仏であった。