ところでこういった瞑想は真言密教にも観法としてあるわけです。
そこで思い出すのが桐山さんが1976年に著した「密教入門・求聞持聡明法の秘密」で真言密教の月輪観の批判と言うか欠点を示しているんですね。
白浄の月を心に思い浮かべる白浄の心を作るわけだが、現代人にとって月輪は白浄を想起させるだろうか?
現代人にとって月はアポロで到達したこともあるでこぼこの星であり、そういうことも想起してしまうので、
もはや白浄の心を呼び起こすことができないと。
しかし桐山さんの般若心経瞑想法とか結局その月輪観から始めて、その中に般若菩薩だの観音菩薩だのなんか作り物の仏を思い浮かべるじゃないですか。
しかも桐山さんは釈迦如来、釈迦こそ実在した仏であり、他の仏は皆偽物であり空想の産物だと著書で堂々と論じている。
だとするとこういうことが頭にある信者、瞑想者はもう月よりもその後に出てくる菩薩を思い浮かべる時に白けるというものではありませんか?
だから自分もまた光り輝くなんて空想をしても、何かお粗末な妄想だなあと感じたものです。