安那般那念経は「安那・般那=出息・入息の要するに呼吸」に対して、念(気づき)を得る、常に心を傾けるお経です。
念は気づきと表現されることも多く要するにそこに心を置くということですから。
そして出す息、吸う息の呼吸も特別な呼吸をしなさいなんてことは書いていないのです。
これは経典を読めばわかる。
長く息を吐いている時は長く息を吐いていると知覚し、短く息を吐いているときは短く息を吐いていると知覚する。
これは長く息を吐け短く息を吐けということではありません。
またと呼吸をしながら何か別の意念、念力を凝らしなさいってな話でもない。
呼吸をしている時は呼吸をしていると感じるありのままに感じるだけです。
その時その時の呼吸に心を傾けてありのままにそれを知覚せよと言っているのです。
だからこれは四念処の身念処に当たります。
これは呼吸に限ったことではありません。
例えば歩行などもそうです。右足を上げた時の太ももの感覚とか、足を着地した時の足の裏の感覚とか、
そういう細かいところに一つ一つ心を傾けるのです。ありのままに感じるのです。決して作ってはいけません。
呼吸というのは息を吸ったり吐いたりこれは意識してできるものですから修行としてもまず取り組みやすいやり方と言えますね。
だから呼吸法ではなく、普通に呼吸をして、呼吸をしている自分をありのままに観察するのです。
そして呼吸や歩行だけでなく、食事をとるとか手を洗うとかそういう日常動作の全て全てに心を留めてやまないということです。
実はこれはペテン大作さんの好きな沙門果経にもちゃんと書いてあります。正念正知のところですね。
そして実際にスマナサーラさんも沙門果経の本を書いていますが、スマナサーラさんの日本テーラワーダ仏教協会の精舎でも
ヴィパッサナー瞑想としてこれがこのまま実践されています。
私はヴィパッサナー瞑想というものを先に切り、その後に沙門果経を読んだものだから、
むしろヴィパッサナー瞑想はちゃんと沙門果経にはっきり具体的に書かれていて、
それを実践しているだけだということを知り、改めて感嘆したくらいです。
ヴィパッサナー瞑想とは何も独創的な話ではなくちゃんと経典に説かれているんですね。
これはスマナサーラさんのところだけでなくスリランカやミャンマーなどに行って日本に帰ってきて
ヴィパッサナー瞑想を教えているところでも全く同じです。
阿含宗だけがこれをやっていません。
それは桐山さんがこれを知らなかったからなんでしょうね。
で、こんな話を書くのはもう何度目だろうか。
書いても全然覚えてくれないんだなあw