>>678
> ぶっちゃけ何を体現するか?なわけで、体現しなければ諦観しかない

なんで体現しなければ諦観しかないのか理由不明だけどw
ま、それがアホラフキンの考えなら考えで別に構わないけど、こうだって決めつけていってこられてもなぁ。

でも、仏教ではもう一歩考察を深めて以下のように観るけどね。

 「体現するものは体現されない」ってね。

何故なら・・・
「体現するものが体現する」というときには、体現するという運動と独立に「体現するもの」が考えられている。
ということは、体現されない「体現するもの」にもすでに「体現すること」があるということである。
したがって「体現するものが体現する」というときには二つの「体現する運動」があることになる。

「体現するものが体現する」ということがいえないから、「体現するもの」は体現されないはずである。

しかし「体現されないもの」が体現するわけもないし、「体現するもの」と「体現されないもの」のほかに第三の体現する主体はない。
しかしまた、「体現する」という運動が「体現するもの」という主体と独立にあることはできない。
だから「体現する運動」はなりたたないし、「体現する運動」がなりたたなければ「体現するもの」もなりたたない。
そうかといって、「体現するもの」と「体現する運動」が同一であるならば、作用とその主体とが一つになってしまう。
その二つが別異であれば、「体現するもの」なしに「体現する運動」があり、「体現する運動」なしに「体現するもの」があるという不合理になる。