ところが、共同体が解体の危機に曝されるほど動揺すれば、事情は一変する。共同体が保証していた「役割」は輪郭を失い、我々は実存として剝き出しにされる。
それは「自分は何者なのか」の問いが先鋭に意識される事態である。この問いに答えを与える何か、すなわち実存に根拠を与える何かが求められたときに、「超越」的存在が必要とされるのだ。
(超越と実像 南直哉)