以下はその無門禅師の言葉です。

「禅の実践的探究には、まず禅の祖師方によって設けられた関門を透過せねばならない。
絶妙の悟りに至るには普通の心意識情といわれるものを完全に滅してしまわなければならない。
もしそのような関門を透った体験もなく、普通の意識を滅した経験もなしに、禅を「ああだこうだ」と評判するとすれば、その人たちはいわば藪や草むらに住み着く幽霊のようなものである。

さて言ってみるがよい。この関門とはいったいどんなものであろうか。
ほかでもない本則でいわれた趙州の「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称するのである。

もし人あってこの関門を透ることができれば、その人は親しく趙州におめにかかることができるばかりでなく、達磨をはじめとする歴代の祖師たちと、手と手をとって歩き、たがいの眉毛が結びあわさって祖師たちの見たその眼ですべてを見ることができるし、同じ耳ですべてを聞くことができる。

それこそまことにすばらしく快いことではないか。
さあみなのもの、この関門を透過しようではないか。
それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。
日夜この問題をとって工夫してみるがよい。

しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。
一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、ちょうど熱い鉄丸を呑み込んでしまって吐くこともできず、呑み込むこともできないようなもので、このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落としてしまうがよい。

そのように長く持続して時機が熟すると、自然に「外と内」(意識と対象)との隔たりがとれ、完全に合一の状態に入る。
その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、自分自身にははっきりしているが、他人にはどのようにも語れない。

突如そのような別体験が働きだしてくると、それこそ驚天動地の働きで、ちょうど蜀の劉備の臣で天下に豪勇を轟かした関羽からその得意の大刀を奪いとっておのれの武器としたごとくに、「無」の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し、達磨に逢うては達磨を斬って捨てるのであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる。

それでは、どのようにこの「無」の一字に全霊を集中させたものであろうか。
それこそ君たちの平生の精神力をつくしてこの「無」に集中せねばならない。
そうして間断なく休止することがなければ、君たちの心中に仏法の灯り(悟りの光)がパッと一時につくといった境地になることであろう。」