前スレ797 ハゲ先生

2節は原語的には「すべての肉の権限」ということですが
ヘブライ語の慣用に従えば「すべての人」となるので
おおよそ「万人を支配する権威」に近いものになる、ということですね

さて18章、読みました

イエスの捕縛からピラトとの会話までの部分ですね
まず共観福音書で語られる「ユダの接吻」の記述がヨハネにはありません
代わりにナザレのイエスであることを自ら「わたしがそれである」と述べる形になっています
6節ではこれを聞いて捕縛者たちが後ずさって地に倒れますが
これはイエスの発言がヘブライ語聖書の神の自称(英語では I am that I am等と訳されているところ)に
対応したギリシャ語になってるということでしょうか
あるいはそれとは関係なく単にイエスの威厳に押された、といったことを描写したものなのでしょうか

9節の台詞部分はヘブライ語聖書の預言の成就という叙述形式を
イエスの言葉の成就に置き換えた形で述べられています
このへんは筆者がイエスの言葉が神の言葉であることを暗示するために
このような書き方をしたのだとしたら、なかなか効果的な書き方だと感じました

捕縛以降はアンナス→カヤパ→ピラトという順でイエスは連行されます
その過程で「わたしは知らない(いや、そうではない)」いう有名なペテロの否認が描かれています
後半の焦点はピラトとイエスの問答に移っていきますが、ここではピラトは寛容な人物として
描かれています
史実はさておき、この問答でイエスは政治的な(この世の)王(メシア)であることを否定し
宗教的なメシアであることを伝えているのだと思います
これは当時ユダヤでは、メシアというものがローマ帝国の支配からユダヤを解放してくれる政治的な
メシアとして捉えられていたことと対照的なメシア観であったのだと思います
ピラトの「この人にはなんの罪も見いだせない」ということばは
筆者がピラトの口を借りてこのことを肯定したものだと個人的には感じます
もちろん、ローマに対する配慮からこのようにピラトを描いたとも言えるのかもしれませんが