>>656
さて20章。「マグダラのマリアが遺体の喪失を発見し」
ヨハネのマリア表記がごっちゃでベタニアのマリアは必ずマリアム
マグダレーネーのマリアはマリアとマリアムがごっちゃ。19章ではマリアでしたが
ここではマリアムです。もしかしたら何か意味があるのかもです。
他のマリアはマリアで統一ですので。
16節ραββουνι ラブーニ 元々は「rhab」は「大きい」という形容詞だったそうです。
それが人に適用されて「大きい者」を意味し名詞化して、更に私のを意味する語尾「i」を
付加し「rhabi」(私の大きな人)という意味で自分の立法の教師に対する敬称となったそうです
しかし敬称であった「rhabi」が一般化しすぎたので、更に強調する形で「rhabbaan」が
使われ語尾「i」も付加され「rhabbooni」(ラボニ)、「rhabbouni」(ラブニ)となったそうです。

罪を許す権限の23節は教会史的編集者の挿入です。
仮定接続詞εανを使うべきところを小辞ἄνを使用。完全な誤用です。

著者ヨハネは、見ないと信じないトマスを最後に登場させて、「わが神、我が主」と
言わせています。見てしまったらどんな者でも主の復活を事実と知ってしまう。
しかし大切なのは
20:29イエスは彼に言われた、
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
です。奇跡を見ずに信ずる者だけが信用できるというのが著者の結論ですね
21章は教会史的編集者の挿入で、著者の結論がこれです。