>>9-10
ロゼさん、お返事ありがとう。

替われるものなら、替わりましょうは、聖母と死を共にしたユダぐらいかもしれません。
磔刑の日は、親しかった、ほぼ全員イエスをペテロのように「知らない」あるいは、
逃避や言い訳の時を過ごした事でしょう。

復活したイエスがどのようなすがただったのか、わかりませんが、
彼らの体験的事実としてあります。

その時に、はじめて自分たちの罪深さに目覚め、自分に対する情けなさと、
過去の自分ではない、新生が起きたのではないでしょうか。

最後の晩餐で、裏切るのは誰かと、人ごとであるような彼ら。
ゲッセマネで、血の汗を流し祈るイエスと眠りこけている彼ら。
名乗り出ない彼ら。
イエスの身代わりに自分を磔刑にしてくれと、言わない彼ら。
神を叫んでも、助けてもらえないイエス、弱くて神のご加護に遠いイエスを見た彼ら。
復活が転換になり、ようやく目覚めたのです。

ですからイエスの十字架の磔刑の、彼らは罪が無くなっという表現の意味するところは、
罪とは何か、罪深い自分であることを、口先や、その場その場でなく、
律法主義的ではなく、
はっきり自覚した、罪人であるとはどういうことであるのかを。