>>516
それは正当なる定義ではなくて、後代の解釈である
このスレッドで言う「佛教」とは「史実の釈尊の教え」に限定されるのである
その上で「論点」である高野山HP自体が
釈尊の教えと後代にできた仏教は別であると客観的に認めているのであるから
論理的な反論と言えず、論点のすり替えの虚偽行為である

>>517
1.上記に同じである
2.「死後も存続して今も人々を涅槃へと誘う」について君自身が客観的証明に
耐えないと判断している以上、この論点は君の負けである。
3.「仏教では無始無終」というのは妄想である。仏教は史実の釈尊から始まっているから
 有始である。
4.論点のすり替え、あるいは単に理解できてません。
 >「欲望に溺れ快楽を楽しんでいても救われる」こそ救われる正機であるとする宗派はない
 というのが論点である。
 悪人だけでは正機とならんのである。
 なぜならば悪人は普通、「自分を善人と誤解しているもの」だから
 自分が悪人と気づいた悪人が「正機」と言われるのである
 「欲望に溺れ快楽を楽しんでいても救われる」者は正機となっていないのである
親鸞の文章を読んで、その論理を学びなさい
5.釈尊も五比丘も他大勢の比丘たちもは、仏教団が戒律を整備する前から、
 戒律で規定されるようなことは遵守していのである。人数が増えて乱れた者が
 出るようになったから具足戒として整備されたのである。
 しかるに日本大乗では誰一人として具足戒を遵守していないのであるから
 南伝からも、他国の北伝大乗の比丘たちからも比丘として認定されていない
 のである。つまり具足戒を遵守していないのは日本だけの特殊事情である
 故に日本にはサンガ(僧)はないのである