【イエス】み言葉と共に【キリスト】Part4
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カトリック教会のカテキズム カトリック中央評議会
第3編 キリストと一致して生きる
第2部 神の十戒
第3項 第三のおきて
p638
2 主日
「今日こそ主のみわざの日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」
(詩編118・24)
新しい創造である復活の日
2174 イエスは「週の初めの日」(マルコ16・2)に
死者の中から復活なさいました89)。キリストの復活の日は、
「初めの日」としては世界創造を想起させます。
安息日の後の「八日目」としては90)、
キリストの復活によって開始された新しい創造を示します。
キリスト者にとっては、あらゆる日の中の最大の日、
あらゆる祝日の中の最大の祝日、
主の日(ヘ・キュリアケー・ヘメラ η κυριακη ημερα)、
「主日」となりました。
p639
「太陽の日にわたしたち全体は集会を催します。
〔ユダヤ人の安息日の次の日であり、初めの日でもある〕この日は、
神がやみと物質を変えて世界をお造りになった最初の日であり、
また、わたしたちの主イエス・キリストがこの同じ日に、
死者のうちから復活されたからです」91)。 >>75 つづき
p639
安息日の完成である主日
2175 主日は、安息日とは明白に区別されます。
暦の上で は毎週安息日の後にやってくる日ですが、
キリスト者にとっては
安息日のユダヤ教的な儀礼に取って代わるものです。
主日は、キリストの過越のうちに、
ユダヤ教の安息日に込められた霊的真理を完成させ、
神のもとにおける人間の永遠の休息を告げるものです。
事実、モーセの律法によって定められた儀礼は
キリストの神秘を準備し、そこで行われていたことは
キリストにおいて成し遂げられる
幾つかの出来事を示す前表だったのです92)。
「古い生き方で暮らしていた人たちが、新しい希望に移り、
もう〔土曜日の〕安息日ではなく、
主の日を守って生きるとしたら、わたしたちは、
どうしてイエスなしに生きていかれましょうか。
主の日に、わたしたちのいのちがイエスを通して、
また、その死を通して現れたのです」93)。
2176 主日を祝うということは、
「神がすべての者に共通に与えてくださる恩恵について考え、
目に見える形で神を崇敬する」94)という
人間の心に刻まれた倫理的おきてを自然に守るということです。
主日の礼拝とは、旧約の倫理的おきてを果たし、
毎週、創造主とその民のあがない主とを祝いながら、
その周期と精神とを踏襲することです。 >>75 91) 聖ユスチノ『第1弁証論』
>>76 93) アンチオケの聖イグナチオ『マグネシアの信徒への手紙』
注
p646
88) マタイ12・5、ヨハネ7・23参照。
89) マタイ28・1、ルカ24・1、ヨハネ20・1参照。
90) マルコ16・1、マタイ28・1参照。
91) 聖ユスチノ『第1弁証論』
(S.iustinus,Apologia,1,67:CA 1,188[PG 6,429-432])。
92) 一コリント10・11参照。
93) アンチオケの聖イグナチオ『マグネシアの信徒への手紙』
(S Ignatius Antio-chenus,Epistula ad Magnesios,9,1:SC10bis,88
[Funk 1,236-238])。
94) 聖トマス・アクィナス『神学大全』
(Sum-ma theologiae,2-2,q.122,a.4,c:Ed.Leon.9,478)。 >>75 91) 聖ユスチノ『第1弁証論』
毎日の読書「教会の祈り」読書 第二朗読
復活節第三主日
聖ユスチノ殉教者の『キリスト者のための第一弁証論』
感謝の祭儀
・・・
わたしたちがささげるすべてのものについて、
一切のものの造り主を、その御子イエス・キリストを通して、
また聖霊を通して賛美しているのである。
そして、「日曜日」と呼ばれている日には、
町や村に住むすべての人は、一つ所で集会を催し、
時間がゆるすかぎり、
使徒たちの記録や預言者たちの種々の書物を読む。
・・・
日曜日にわたしたち全体は集会を催す。この日は、
神が闇と物質を変えて世界をお造りになった最初の日であり、
また、わたしたちの主イエス・キリストがこの同じ日に、
死者のうちから復活されたからである。
・・・ >>76 93) アンチオケの聖イグナチオ『マグネシアの信徒への手紙』
毎日の読書「教会の祈り」読書 第二朗読
年間第十六月曜日
アンチオケの聖イグナチオ司教殉教者のマグネシアの信徒への手紙
一つの祈り、愛と非の打ちどころのない喜びのうちに一つの希望
・・・
それで、古い生き方で暮らしていた人たちが、
新しい希望に移り、もう〔土曜日の〕安息日ではなく、
主の日を守って生きるとしたら、わたしたちは、
どうしてイエスなしに生きていかれましょうか。
主の日に、わたしたちのいのちがイエスを通して、
また、その死を通して現れたのです。
ある人たちはそのことを否定していますが、
わたしたちはこの神秘を通して信仰を受け、
またこのためにこそ堅忍して、
わたしたちの唯一の師であるイエス・キリストの
弟子として認められたいと励んでいるのです。 >>79
・・・
>>76 93) アンチオケの聖イグナチオ『マグネシアの信徒への手紙』
講談社文芸文庫 使徒教父文書 荒井献[編]
イグナティオスの手紙 八木誠一訳 一五七
2 マグネシアのキリスト者へ p169−176
9章 1節
それでも旧い生き方で暮らしていた人々が
希望の新しさのもとに至り、
もはや(ユダヤ教の)安息日(土曜日)を守らず、
むしろ主の日(日曜日。キリストは日曜日に復活した)
を守って生きるなら−主の日に私達の生が、彼を通し
また彼の死を通して、立ちあらわれたのです。
これを否定する人達もいますが。
しかし私達はこの秘儀を通じて信仰を得たのであり、
そしてだからこそ私達の唯一の師イエス・キリストの
弟子とされるために、忍耐しているのです。 >>75 安息日の後の「八日目」としては90)、
講談社文芸文庫 使徒教父文書 荒井献[編]
バルナバの手紙 佐竹明訳 四一
p74
15章
8節 さらに主は彼らに、「わたしには、
あなたがたの新月の祭と
安息日とは我慢がならない(イザヤ1・13)」
と言っておられる。
彼がどのように言っておられるかに注意をするように。
つまり、わたしにとって喜ばしいのは
今の安息日ではなく、わたしのつくった安息日であって、
その日には、わたしはすべてを休み、
第八日目のはじめ、つまり別の世界のはじめを
作るであろう、(と言っておられるのである)。
9節 それゆえにわたしたちも、
イエスが死人の中から復活し、(人々に)あらわれて、
天に昇った第八日を祝うのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています