0893神も仏も名無しさん
2021/12/31(金) 00:40:30.04ID:HQDpGjuNhttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/944
944 名前:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage] 投稿日:2021/12/30(木) 23:34:40.50 ID:SymNpRIQ
次はジーヴァなのじゃ。
これは命根とか翻訳されるのじゃ。
生命の機能であり、アートマンを含むものと考えられてきたのじゃ。
生命の機能あるものが自分と考えれば、これもまた老病死による苦を免れないのじゃ。
そしてプドガラなのじゃ。
これは既に滅び去った仏教の一派が提唱したものであり、詳しい定義は残っていないのであるが、他派の批判によって少しはわかっているのじゃ。
これは過去の因縁を持ち運び、業を作り業を受け取るものであるというのじゃ。
業の主体ともいえるのじゃ。
これが輪廻するものの主体でも在るのじゃ。
過去と同じ自分があるという連続性を仮定するものじゃ。
この観念もまた死による過去からの断絶がある故に、死苦を免れないのじゃ。
わしはこのプドガラの定義によって自分という観念に気付いたのじゃ。
わしは自分とは過去の記憶を持ち、過去の因縁を受ける者という観念をもっていたのじゃ。
それに気づいたことで自分という観念が厭離され、無くなったのじゃ。
更に無我を見るものがあったが、それも空であると観じて大悟徹底の境地に入ったのじゃ。
とはいえ誰もがそのようにして大悟できるわけではないのじゃ。
わしはたまたま自分とは過去の記憶、因縁をもつものという観念をもっていたから自分に気付いたのじゃ。
自分が他の観念であるという認識を持つ者には、気づきはないじゃろう。
例えば自分とは思考の主体であるとか、感情の主体であると認識する者達には効果は無いのじゃ。
それぞれの者達が自らの自己認識を追及していかなくては悟りは訪れないのじゃ。