784 名前:神も仏も名無しさん :2021/06/13(日) 00:56:40.87 ID:VBUJP+E0
>>782
見性に関しては、曹洞宗内部で道元禅師の解釈が別れるでしょうね、
ただし、公案によるものは否定しているでしょうね。
道元禅師の修行体験記では、
悟りの体験が。身心脱落の体験がありすね、
それを考察すると、これを見性とよふか、呼ばまいか、は解釈は別れるでしょうね。
ただし、私的には、夕を導いた支店長の師匠、セッタン師匠の文章から理解するに、
悟りの体験は必要だか、そこから離れなければならない、という意味ではないかと、
私は捉えています、すなわち、ヨガでいう至福のきよこら離れる、真言宗の悟りの至福の価値をも認めない立場。
その面では臨済宗禅定も変わりありませんが、
悟りの段階で公案がある言う、意味での見性を、否定しておるのではないかと、私は思っています。