■毒盛■5ch版・世界救世教のスレ part20■常習■
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>医学はこれを逆に解釈し、その浄化活動を停止するを可とする。それが予防接種である
→毛吉は一つの説を全ての事象に当てはめようとする癖があるようだ。単純に体のどの部位
でも痛みが発生すればそれは毒素排泄のためであるから、痛み止めなど打ってはいけないと
いうことになる。そのまま苦しみ続ければ毒素が排泄されて治るというのだから恐ろしい
謬説としか言いようがない。 確かに西洋医学では症状わ抑えて発症しないようにすることで治癒したとしてしまうケースも
ある。毛吉の説も全て誤りではない。 ただ体内の化学物質をどうするのか?
毛吉は浄霊によって溶かすことができるとして、体外排出ができるとしているが、実地に
浄霊をしてみると体外排出できるのはほんのわずかだろう。
それと霊体を清める方法を勧めていてこれが献金と美術鑑賞のわけだが、
これには全く効力などないのはわかりきっている >その誤謬たるや評すべき言葉はないのである。従ってせっかく排除さるべき毒素をそ
のままに保存するばかりか、新しく薬毒を追加するので、毒素はいよいよ増量する
→ここでも自身げに毒素輩出できると言っているが、毛吉自身歯の痛みに自己浄霊
し続けて20年というなんとも悲惨な人生を過ごしている。 >児童は強力な浄化が起り得ないため、精々感冒くらいが頻繁に起るのである。ところ
がこれだけならいいとしても、実はこれが恐るべき結核の原因となる事である
→体内毒素の集積が結核にかかる原因としているが、全く迷信としか言いようがない。 >>48
>元来伝染病なるものは旺盛なる浄化作用であるから年少者に多いのである。何となれ
ば発育盛りの小児は新陳代謝が旺盛であるから発育の障害物である毒素排泄の浄化活動
が起りやすいのは当然で、実に天の恵といわなくてはならない。しかるに何ぞや医学は
この結構な浄化活動を弱らせようとする。それには薬剤その他の異物を体内に注入して
衰弱させるのである。 →少年少女、青年男女の場合は新陳代謝が盛んであり、体内の異物排除や炎症箇所など
短時間で回復します。この体内毒素は毛吉も指摘している通り、鼻水、痰や汗、
あるいは発疹からウミを出す、大小便での排出などを通じて体内から除去する
作用がある。
これと風邪をひくということとはまた別問題でしょう。ウイルスに感染する、いわゆる
風邪をうつされるということは健康体のだれにでも起こります。
毛吉は風邪をひいたら薬を飲まずに発熱させ、下痢や嘔吐も含めて、寝たきりで汗を
沢山かいて体内毒素を消減させることにより、回復するとしているが、この作用は
発熱によって細菌を滅菌するために起こり、その死滅菌を痰や汗で排出すると言う
ことでしょう。この際、毛吉のいうように体内化学物質も同時に排泄されるということにも
なります。 細菌に関しては先に記したように、肉食・雑食により免疫力が減退しますのでこれをやめる。
そしてビタミンなどの必要な成分(できれば天然成分)を摂取して細菌を免疫力で死滅させるのが理想です。
現在のコロナ菌に関しても、自然治癒力で回復させるしかありませんのでその手助けを
病院で行っているということです。これとワクチンでウイルスに対抗死滅させる方法と
があります。 >医学はこの結構な浄化活動を弱らせようとする。それには薬剤その他の異物を体内に
注入して衰弱させるのである。
この毛吉の説は昔の西洋医学の古いやり方に当てはまる。現在でもそういった根本治療で
ない方法も多々行われている。体が弱れば、細菌も癌も弱る。
結局、免疫力を化学物質を使うことなく最大限に発揮させて自然治癒させる方法が人間に
優しく痛みを伴わない方法です。 ただこういうやり方というのは丹念にじっくり時間をかけてやっていくしかありません
ので、患者の考え方や忍耐力、あるいは食に対する考え方によっては成り立ちません。
またこういう病院があったとしても保険の適用は難しく、病院経営としては至難で
しょう。
手っ取り早く治療して病院が利益を上げる方法が、化学薬剤を適宜使用して副作用
でさらに別の病気が発生するということで、病院は老人たちで常に混雑しています。 その化学薬品の会社が外資も含めて、他社ありますがテレビ局のスポンサーです。
どういうことかと言いますと、健康で幸せな老後の生活をしてもらうと病院も製薬
会社も儲かりません。ですから、病気になったらすぐに医者にいくというのが当たり前
になっている。メディアによりいわば洗脳されています。
それと食生活も病気にしていくには有効な手段です。ハムやソーセージ、牛肉販売の
会社もテレビのスポンサーです。この肉食を危険視する発言を芸能人がすると
芸能界から干されます。我々の耳に入り、知識として蓄えられているテレビや
ラジオからの有益な情報ですが、洗脳に使われている。
健康で幸せな老後を真面目に語る人はメディアには出演できません。 菜食のよき例
『栄光』174号、昭和27(1952)年9月17日発行
この間奈良薬師寺の管主であり、法相宗の管長である橋本凝胤師が、武者小路流の
茶道の宗家・官休庵師匠の案内で来られ、数時間談話を交したが、ほとんど十年の知己
のごとく話がはずんだ末夕飯となり、共に食事をしたが、驚いた事には絶対菜食なので、
鰹節も入れずに一人前だけ料理を別に作らした程であったから、いかに徹底した菜食家
だという事が分るであろう。まず栄養学者からいったら、無論素晴しい栄養不足食とい
うだろう。ところが事実は反対も反対で、師の面貌を見ると六十歳以上でありながら、
その艶々とした顔色の好さ、肉付も申分なく、素晴しい健康色で、受ける感じの快さは
今までに見た事のない人柄である。しかもその頭脳の明敏、記憶のよさ、私が仏教美術
について色々質問したが、その名答振りもまた驚く程で、私は全く心を打たれたのであ
る。これでみてもいかに菜食が健康にいいかという事がつくづく思われた。もちろん生
まれてから病気した事もなく、薬の味も知らないというのであるから、私の説を裏書し
て余りあるのである。それに引換え現代人と来ては、栄養を大いに食いながら、顔色の
悪さは固より、頭脳の鈍さと来てはお話にならない程であるから、その無知なる何と
いっていいか言葉はないのである。 >法相宗の管長である橋本凝胤師が、武者小路流の茶道の宗家・官休庵師匠の案内で来
られ、数時間談話を交した
→法相宗というとあの法隆寺や薬師寺ということになるのだが、法隆寺には、秘仏・観音
立像が有り、茂幾血の子供の時の写真で写る顔写真がそっくりであると内部資料で宣伝
しているのだが、ある角度から見た時になんとなく似ているのだが、正面から見ると丸
で似ていない。更に茂幾血自身が聖徳太子の生まれ変わりと称しており、装飾ネタとして
使われている。 >共に食事をしたが、驚いた事には絶対菜食なので、鰹節も入れずに一人前だけ料理を
別に作らした程であったから、いかに徹底した菜食家だという事が分るであろう →70年以上前の話しだろう。現在の僧侶でこういった食生活をしている人は殆どいない
と思われます。法事の席でも僧侶は食事など余り長居しません。肉や魚を食べていれば
威厳が失われる。雑食僧侶となっている。裏側でどういう食生活をしているかは、話しを
すればすぐに分かりますので、僧侶たちは俗人と話し込んだり仏法を語り合ったりすること
も、殆どやりません。お寺回りなどやると、僧侶の自家用車がアメ車だったり大型のBMW
だったりします。これらの車の内装は革張りであることが多いです。お寺・兼自宅には固定
資産税が優遇されています。そういった敷地内にシャッター付きの車庫があり、見えないよ
うに収納されていて、高級外車など乗り回しているものが多いと聴きます。 >師の面貌を見ると六十歳以上でありながら、その艶々とした顔色の好さ、肉付も申分
なく、素晴しい健康色で、受ける感じの快さは今までに見た事のない人柄である。しか
もその頭脳の明敏、記憶のよさ、私が仏教美術について色々質問したが、その名答振り
もまた驚く程で、私は全く心を打たれたのである。これでみてもいかに菜食が健康に
いいかという事がつくづく思われた。もちろん生まれてから病気した事もなく、薬の味
も知らないというのであるから、私の説を裏書して余りあるのである。 →法相宗の僧侶が、穀物菜食主義で病気の経験が無く、薬も飲まないということで、それが
最高の健康法とでも茂吉は言いたいのだろう。茂吉の説を裏付けているというが、果たして
そうだろうか。
茂吉は病気になった時だけ偏食菜食に切り替えると言っている。日常生活では雑食を勧め
ていた。その結果として信者達は顔の色つやが悪く、頭脳が鈍麻している。美術に関する
見識など微塵も無い。献金させられているので美術品など老後になっても買えるはずもないか
らだ。おまけに、病気になる人が多く、浄霊と献金漬けである。 これは結論から言うと、
仏様を拝むと健康と若返り、学識が与えられる。
茂吉の指導するように、蛇神を拝まされ雑食していると、
病気と老け顔、無知無能が与えられる。 >>67
>それに引換え現代人と来ては、栄養を大いに食いながら、顔色の
悪さは固より、頭脳の鈍さと来てはお話にならない程であるから、その無知なる何と
いっていいか言葉はないのである。 裏明主様はご自分で指摘しておきながら、
その悪弊というものを信者たちに押し着せするテクニックを使っている。
信者が病気になり悲惨な末路になることが分かっていながら、それを推し進める
という極悪人の相が出てますね。 茂吉の前世の話しだとか、様々な見えもしない霊界をさも知り得た覚者として
語ってますが、殆ど作り話か他人の文献からの引用にすぎない。 前記のように雑食させられ、蛇神を拝まされている信者たちは
やはり茂吉の説のペテン性や嘘偽り、完全な騙すための作り話から贋作神霊写真や
神秘示現太古硯などありますが、こんなおかしなことを聴かされても
ただ耳を塞ぐばかりで何も考えようとしません。 茂吉は本物の極善人なのか?
或いは極悪人なのか?
極善人がニセではなく本物であるということであれば、>>77で記したような
ことをしてきた人物としては有り得ないということです。 岡田毛基地が善人かどうかという問題は非常に微妙であり、その判断・判定はかなりむず
かしいものであると言えます。
誰しも断片的に見た場合に、善なる性質・慈悲、優しさ、愛情など備わっている。
善人であれば、劣った性向・性癖をいかにセーブしているか、またはしてきたかという
ことになります。
毛基地は大本教で教えられた、蛇神信仰というものを基軸として信者を骨抜きにして財産
を召し上げる方式をとったと言えましょう。初期専従者の井上にしても贋作石硯について
後押しをしていた。これは詐欺に加担したのと同じことです。
三代様(岡田斎)、四代様(岡田陽一)にしても、信者からみると人柄がよく毛基地信仰に
よって錬磨された性質を具えている代表者としてみているのですが、こういった立場の
人間でさえ、本尊については口を閉ざしたままです。詐欺メシア様毛基地と同様な同じ
穴のムジナにすぎません。 満足と不満
『栄光』200号、昭和28(1953)年3月18日発行
人間誰しも満足の境地になりたいのは言うまでもないが、それが思うように得られな
いのが人生であって、考えようによってはこれも面白いのである。ところがよく考えて
みると文化の進歩の動機は、人間の不満足な心にあるのだから、世の中というものは単
純に解釈出来ないものである。つまり不満足がある程向上もし、改革も出来、進歩もさ
れるのである。そうかといって不満がありすぎるとこれまた困る事になる。例えば争い
の原因となったり、身の破滅となる事さえある。個人的には家庭の不和、友人、知己(
ちき)との仲違(たが)い、喧嘩口論、自暴自棄、警察沙汰というように、危険の因と
なる事さえ往々ある。また社会的には過激な思想団体を作ったり、火炎瓶や破壊行動に
まで発展し、内乱を起す事にもなるから軽視出来ないのである。また右とは反対にあい
つは好人物だ、お目出度いと云われるような人間は、余り不満が起らないらしく、いつ
も満足してるようだがしかしこういう人間に限って、能力がないからマイナス的存在と
なる。とすれば満足でも不可(いけ)ないし、不満足でも不可ないという事になり、ど
ちらがいいか判らなくなる。しかしそれは大して難しい事はない。帰するところ偏
(かたよ)るのが不可ないので、両方を巧く按配(あんばい)すればいいのである。
といっても口では易しいが、さて実行となると中々難しいもので、そこが人生の人生
たるところかも知れない。要は千変万化どちらにも決めない融通性があって、その根
本に誠があればその人は世の中から用いられ、出世もし、幸運をかち得るのである。 >人間誰しも満足の境地になりたいのは言うまでもないが、それが思うように得られな
いのが人生であって、考えようによってはこれも面白いのである
→満足の境地ということでは、毛既知はこういう境地を信者たちに得させないように
仕組んでいたと言えるだろう。信者達が満足の境地になれば浄霊もせず、献金もしなくなる。
毛既知にとっては商売上がったりである。常に不安と迷妄、恐怖感にさいなまされていてこそ
浄霊三昧になり、献金を生きがいとするようになる。毛既知は暗に蛇神を本尊とし、こういった
何気に不安焦燥の境地というものをつくり出してきた。 満足な境地がなかなか得られないということを面白いと表現している。
毛既知はこういった不満足であり、迷妄であり、不平不満であり、という精神状態を
信者に忍耐させ、今から考えるとおかしいのだが、苦しみに耐えろ・忍耐しろ・献金で苦しめ
ということで霊魂が浄まると教えて苦悩で囲い、それが快感である境地であると錯覚させ
て変態信者を増殖させた。 ホラ吹き爺さんの言う事を鵜呑みにする信者がいるからな〜 >81
>文化の進歩の動機は、人間の不満足な心にあるのだから、世の中というものは単純に
解釈出来ないものである。つまり不満足がある程向上もし、改革も出来、進歩もされる
のである。 →不満足な心が文化の進歩向上、改革につながるということだが乱暴な稚説だろう。
正しくは感謝の心、正しい神仏への信仰が文化の進歩向上、改革を推進し実現させて
きているということであり、それが歴史上の事実でもある。
茂吉はこの正しい神仏への信仰について、完全に剥離され、はぎとられた状態に信者を
追い込んでいる。いくら信仰しても生活が良くならない。何か異様な感覚に苛まされている。
不吉な夢や妄想が起きる。身辺に事故や病気などの災厄が続く。
こういった信者の人生遍路というものは茂吉によって醸成され、正常な感覚や
財産も奪われ、地を這う蛇のような実態生活に落伍されているからだが、これは
説明するまでもなく当然の報いであると言える。 >81
>つまり不満足がある程向上もし、改革も出来、進歩もさ
れるのである。そうかといって不満がありすぎるとこれまた困る事になる。例えば争い
の原因となったり、身の破滅となる事さえある。個人的には家庭の不和、友人、知己(
ちき)との仲違(たが)い、喧嘩口論、自暴自棄、警察沙汰というように、危険の因と
なる事さえ往々ある。また社会的には過激な思想団体を作ったり、火炎瓶や破壊行動に
まで発展し、内乱を起す事にもなるから軽視出来ないのである。 →不満足があるほど向上すると言っておきながら、不満がありすぎると困るとはどういう
ことだろうか。
言い換えると、不満足がありすぎると向上し、また困ったことにもなるというおかしな日本語
である。
毛吉のいうことが如何にデタラメかということの証明になるのだが、
>家庭の不和、友人、知己との仲違い、喧嘩口論、自暴自棄、警察沙汰
これはMOAそのものではないかと思う。熱海聖地で80年代中盤に起きた乱闘騒ぎが
それである。火炎瓶を投げつけ、鉄バイブを振り回す。殴る蹴るの暴行。世間では
低劣極まりないカルト宗教の抗争事件としてテレビで釘付けにされた人も多いと思う。
あの浅間山荘事件に匹敵するほどのおぞましい蛇神宗教の本性が発揮された事件だった。 ホラを吹いて他者から金を集めるのが真に上手い一族です。 ここではホラ吹き爺さんに誑かされた連中が持論を展開している。
そしてホラ吹き爺さんが明主様って呼ばれている。
https://9205.teacup.com/hirunosekai/bbs >81
>また右とは反対にあい
つは好人物だ、お目出度いと云われるような人間は、余り不満が起らないらしく、いつ
も満足してるようだがしかしこういう人間に限って、能力がないからマイナス的存在と
なる。とすれば満足でも不可(いけ)ないし、不満足でも不可ないという事になり、ど
ちらがいいか判らなくなる。 →好人物だ、お目出度いと云われるような人間は、余り不満が起らない
これも救世信者そのものですね。中身が無い。正当な考え方も知識も無いので世の中で
戦えない。会社で指導者・管理職につけない。仕事が好きになれない。やる気がおきない。
したがって経済的にもいつまでたっても満たされない。これこそ、救世信者の性質を表す
適した表現もないだろうと思います。 >満足でもいけないし、不満足でもいけない
→またおかしな日本語ですが、モー吉は信者を迷わせ、誑かして楽しんでいるのでしょう。
生活や境遇に満足して足るを知り、物を大事にする。全てに感謝する心ができていること
ほど幸福なことはありませんね。そこに本当の意味での向上心や能力の発現がある。
モー吉はこの駆動力となるエンジンを停止させている。
例えれば、下り坂はエンジン無しの車では速くて快適だが、昇りになると乗車員は降りて、
車を押さねばならないようなものでちっとも進まない。小型エンジンの車にも比較にならな
いほど、走行できないような状態を作り出している。
救世信者の頭脳は鈍麻し、自らの小妄想世界をただ回り続けているに過ぎない。 >80
>大して難しい事はない。帰するところ偏
るのが不可ないので、両方を巧く按配すればいいのである。
といっても口では易しいが、さて実行となると中々難しいもので、そこが人生の人生
たるところかも知れない。要は千変万化どちらにも決めない融通性があって、その根
本に誠があればその人は世の中から用いられ、出世もし、幸運をかち得るのである。 この茂吉の口振りはフリーメイスンにも通ずるものがある。
怪しげな本尊を祀っておきながら、善でもない悪でもない偏らず
中道を行くべきだと。
ミロク大蛇神を祀らせながら神だ仏だメシアだと力説する。
このやり方は裏社会そのものだろう。日本人を蛇に膝まづかせ、英米を崇拝させる
理論展開が茂吉理論である。茂吉によってアメリカは敵国ではなく、有難い原爆殺戮
で日本を屈服させた英雄の国であり、模範であり理想国として認識されてしまって
いる。 >要は千変万化どちらにも決めない融通性があって、その根
本に誠があればその人は世の中から用いられ、出世もし、幸運をかち得るのである。 →茂吉がその手本を示した。蛇霊を祭祀しておきながら、様座な正当な古式にのっとり、
いかにも神道・仏教・キリスト教、はたまたあらゆる諸教も含めてそれらを包含し、
救いとるメシアであると偽装する。これは千変万化だろう。 >その根本に誠があればその人は世の中から用いられ、出世もし、幸運をかち得るの
である。 →この誠ということは常に言われているところであるが、信者にとって特に単純な方々に
とって常に脳裏にあるのが、『誠をもってするしかない』という教えである。
さも腑に落ちるようなフレーズであるのだが、これは
天皇家でよく言われていることであって、そのパクリを茂吉はひそかに用いている。
要するに自らを天皇になぞらえてメシアとして君臨するということを年頭に置いて
いるのである。
九官鳥にように覚えたことを繰り返しているだけの茂吉。
伊弉諾尊になり、弥勒菩薩になり、キリストの再臨になり、聖徳太子、尾形光琳など
なんにでも千変万化し、ペテン力を発散し続けた日本史上最悪の詐欺師・茂吉。
こんな人物を拝んでいて、幸福や出世など有り得ないということは信者たちの人生で
証明されている。 本教に迷信はない
『栄光』143号、昭和27(1952)年2月13日発行
世間一般の人の考え方は、新宗教とさえ言えば迷信と見るようだが、これは実におか
しい話ではないか、もしその観方が正当とすれば、既成宗教には迷信がないという事に
なろう。しかしよく考えてみると、今日強固な地盤を築いている幾多の既成宗教にして
も、その初めは例外なく迷信邪教扱いされたのである。まず第一のキリスト教がアノ通
りで、時の民衆から散々罵声を浴びせられ、教祖キリストは十字架の露と消えたにみて
も分るはずである。日本においても、彼の法然、親鸞、日蓮、天理教の教祖のごときも
邪教の本尊とされ、幾度とない入牢や遠島は固より、中には生命の危険にまで晒された
のは衆知の通りであるが、しかも今なお燦と輝いている。これにみても分るごとく、い
つの時代でも新宗教に、誤解と受難は付物である。という訳で現代人といえども、ジャ
ーナリストなどは、新宗教というとろくろく触れもせず、インチキ邪教と決めて しまう
その軽率さはお話にならないのである。こういう人達こそ、いずれは引っ込みがつかな
くなり、恥をかくくらいが落ちであろう。こうみてくると、現在世間から非難を浴び
せられている新宗教の中にも、将来今日の既成宗教以上のものが出ないと誰か言い得
るであろう。はなはだ自画自讃ではあるが本教なども現在毀誉褒貶(きよほうへん)
の渦中にあって、社会の注目の的とされてはいるが、いずれは臍(ほぞ)を噛む人も
大多数出来るに違いないと思っている。もっとも本教の唱える説は、既成宗教や現代
文化の水準とは、余りにも懸け離れているので、容易に分り得ないからでもあろう。
これも昔から多くの例があるように、科学上の学説にしても、新しい説を唱え出した
者は、その時代の丁髷(ちょんまげ)階級から異端者扱いをされ、酷い目に遭わされ
た事績は人の知るところで、彼のコペルニクスやガリレオなどの地動説などもいい見
本であろう。しかも本教の唱える説たるや、有史以来類例のない程の、余りに破 天荒
的新説であるから、既成文化の眼で見たら、到底信じられないのは当然で、ちょうど
幕末期における切支丹(きりしたん)バテレンのように思えるからであろう。ところ
が現代文化に対し、私としての観方を率直に言えば、驚くなかれその大半は恐るべき
迷信に陥っているのである。そこでこれを大別してみると、三つの大きな迷信がある。
第一は医学迷信、第二が肥料迷信で、第三が無神迷信である。この内最初の二大迷信
は常に説明しているから、ここでは略すとして、第三の無神迷信であるが、これも今
まで相当唱えては来たが、まだ言い足りない点もあるので、ここでかいてみるが、言
うまでもなくこの世に神などはありはしないという無神思想である。それがため反っ
て有神論者を目して、迷信とみなす逆迷信である。これなども森羅万象に対し、心を
潜めてよく検討すれば、神の実存が分らないはずはないのであるが、そこまで研究し
ようとする人がまことに少ない現在である。という訳は何しろ生まれながらにし て、
唯物教育を散々叩き込まれた結果、無神思想になり切っているからで、いつも言う通
り野蛮人が空気は見えないから、無いというのと同様で、何と未開人的ではなかろう
か。従ってどうしてもこの無神迷信を打破し、再教育をする事こそ、文化向上の最緊
要事であって、それより外に真の文明世界実現の方法は、決してあり得ないのである。
次に今日割合人々の軽視している彼の世俗迷信である。すなわち暦にあるヤレ大安、
仏滅、先負などという馬鹿馬鹿しいと思う程の迷信が、案外人心に喰い入っている。
また日のいい悪い、家相、方位、相性などもそうであって、こういう迷信は東洋ばか
りかと思うと左に非ずで、西洋の方も案外負けないようだ、彼の十三日金曜日なども
それで、ホテルや病院の室も十三の数だけ省くそうである。これはキリスト受難日か
ら生まれたものであるが、面白い事には科学の進歩した国程、反って迷信が多いとさ
れている。彼の文明国中迷信の数からいうと、独逸(ドイツ)が一番多いという のも、
全く理屈に合わない話だが、実はこれが理屈に合っている事を次にかいてみよう。ま
ず現代社会で、教養のある人程そうだが、科学的合理的にすれば、万事は都合よくゆ
くと思っているが、不思議にも事実はそうはゆかない。意外な結果となる事が往々あ
る。例えば病気にしても、早い内から有名な博士や大病院に入院し、金に飽かして近
代医学の粋を尽しても仲々治らず、死ぬ事さえもあるし、また金持の坊ちゃんなどが、
金を掛けお医者のいう通りにしても、弱々しい腺病質になるに反し、ろくろく構わな
い貧乏人の伜(せがれ)が、ピンピンしているというような事実である。また交通事
故などで不時な災難を受けたり、いか程注意万端行届いていても、不意の病気も災害
も避けられないのが世の中の常で、全く一寸先は闇である。その他人間同士にしても、
善人らしい悪人もあり、悪人らしい善人もあり、ウッカリ信用して飛んでもない目に
遭わされる事があるかと思えば、駄目と思った人間が案外役に立つ事もある。またこ
れも世間ザラにある話だが、平常から心掛けて貯蓄をし、貯金帳を見るのを楽し みに
していると、家族の誰かが病気に罹り、入院でもすると、長年の血と汗の塊も一遍に
飛んでしまい、百日の説法屁一つという事もよくある。このように考えてくると、実
に不安の中で呼吸しているのが人間である。それがため政府においても、ヤレ何々保
険、何々補償法などといって、各種の災害防止法を熱心に行っているが、これらもな
いよりは増しだが、到底根本的解決とはならないのは衆知の通りである。以上のよう
に寸時といえども、安心の出来ないこの娑婆(しゃば)としたら、科学だけでは安心
出来ないのはもちろんで、他に何らか頼りになるものを求めるのは人情である。そこ
で昔からの言い伝えや、世間ありふれたものの中から、少しでも安心の助けになりそ
うなものを利用する訳だから、これらも全く科学不信の結果、余儀ないので、結果か
らいえば科学が迷信を作るといっても、間違いではないであろう。ところが本教の信
者になると、実に不安というものがなくなる。これはお蔭話に沢山出ているから読め
ば分るが、現在の世の中で本教信者くらい安心感を得ている者はあるまい。と いって
も禍いは絶無とは言えないが、それは世の中に罪穢の全然ない人はないからである。
しかしたとえ禍いがあっても、その原因がハッキリ分り、禍いは浄化であるからそれ
が済めば幸福が増すという楽しみがあるので、反って感謝の念さえ湧くから、結局不
安のない人間となるのである。仮に家を探す場合などもそうで、神様の御守護で思っ
た通りの家が見つかるか、もし見つからなければ、まだ時期が早いから待てという意
味で、いずれは予期以上の家を与えられる奇蹟は常にある。万事がそうであるとした
ら、文字通り安心立命の境地に住し、迷いなど起るはずはないのである。すなわち標
題のごとく、本教には迷信がないと言う事が分るであろう。 >103
>今日強固な地盤を築いている幾多の既成宗教にして
も、その初めは例外なく迷信邪教扱いされたのである。 →すべての古くから存在する伝統のある宗教・宗派が悉く迷信邪教扱いをされていたという
ことだが、全く事実でもなく正しい見解でもない。
無知蒙昧な宗教知識の無い人達に対しての誤見としかいいようがない。 >まず第一のキリスト教がアノ通りで、時の民衆から散々罵声を浴びせられ、教祖キリ
ストは十字架の露と消えたにみても分るはずである。日本においても、彼の法然、親鸞、
日蓮、天理教の教祖のごときも邪教の本尊とされ、幾度とない入牢や遠島は固より、中
には生命の危険にまで晒されたのは衆知の通りであるが、しかも今なお燦と輝いている。
これにみても分るごとく、いつの時代でも新宗教に、誤解と受難は付物である。 →キリストは迷信邪教扱いされたのではなく、奇跡の示現とみ言葉により、多くの民衆
を先導したことによりユダヤ教徒たちから憎まれ妬まれ、弟子の一人が金銭のために寝返り
寝返り、拿捕(だほ)・処刑された。 法然・親鸞両上人は
後鳥羽上皇が紀州・熊野に参詣中、法然の弟子の安楽や住蓮が行っていた念仏会に、
上皇に仕えていた女官が参加し、出家してしまったのです。上皇はこれに激怒し、また
他宗派による専修念仏批判の声が大きかったこともあり、朝廷は念仏の禁止の決定を下
します。そして安楽や住蓮を含む4名の門弟が死罪、法然上人と親鸞聖人を含む7人の
弟子たちが還俗のうえ流罪という厳しい処罰が下されました。法然上人は土佐国へ、
親鸞聖人は越後国へと流されます。
ということで、茂吉の言う邪教の本尊など一切無関係であり、親鸞上人に至ってはこの
流罪により、茨城を中心とした関東布教が実現している。
邪教の本尊とは大日本観音会そのものであろう。 日蓮上人においても、親鸞上人の晩年にその風音は耳に届いていたということであり、
特に念仏者を激怒させ、鎌倉の草庵、鴨川の鏡忍寺において100人以上に囲繞(いにょう)
され、額に三寸近い刀傷と腕のへし折りを受難されている。
これはさんざん阿弥陀仏信仰者を煽り、逆鱗をなですぎたためである。
晩年に至り、日蓮上人は他宗派への批判・非難を弟子たちに禁止させている。 幕末に流行した新興宗教がいくつかあり、その内の一つが天理教である。
天理教で祀る神は古事記・日本書紀に登場しませんので明治政府から制約を受けた
ようである。
その一方で、大本蛇神教は邪教の本尊であり、その聖地は明治憲法下の政府により、
ダイナマイトで爆破された。
その末裔である茂吉は、古い宗教に徹底的に偽装する形で蛇神本尊教を隠蔽護持した。
既成宗教を非難し、迷信邪教扱いする理由が蛇神本尊教がバレないようにするための
一つの手法である。 >https://9205.teacup.com/hirunosekai/bbs
>エホバの証人の正体 投稿者:1番 投稿日:2021年 5月11日(火)03時26分7秒 編集済
昨日 NHK テレビで 、「信仰2世を追い詰める生活を考える。」やってました 。
それは どこの教団かと思ったら 、キリスト教聖書を学んでいた。そしてハルマゲドンを訴え、それを 怯えていたと言っていました。
・・・・・
こう書いている人もホラ吹き茂吉爺に洗脳されているようだ。 おはようございます。
今日も皆様が少しでも輝の会の存在を知り、救われますように エホ証は昔から輸血拒否で問題をおこし、有名だった。
その番組は見たが、まず信者達に問題がある。縁あって入信したのだろうが、
宗教など教団に入らないでもいくらでも学べる。
エホ証や創価学会などはもとから宗教など、どうでもいいという人達が
憩いの場所を見つけたというだけであり、いごこちのいい温床に座り続けたいと
いうだけのことで宗教学などさらさら興味無しの鈍根者たちの集まりだろう。 >104
>現在世間から非難を浴びせられている新宗教の中にも、将来今日の既成宗教以上の
ものが出ないと誰か言い得るであろう。 茂吉が始めた、大日本観音会のちの世界メシア教団が既成宗教、すなわち世界三大宗教
や世界中の諸宗と比肩しても上回る存在ということだが、
絵に描いた茂吉、いや餅でしかない。 世界を支配するペテン師に俺(茂吉翁)はなるぞと。
こういうことですね。 >っとも本教の唱える説は、既成宗教や現代文化の水準とは、余りにも懸け離れている
ので、容易に分り得ないからでもあろう。 →昭和初期から戦後までの人達の中ではまだまだ小学校しか出ていない人達は沢山いました。
そういう人達を相手に茂吉は趣味の宗教研究の成果で簡単に騙せると踏んでいたのでしょう。
そういう意味で全く自身に満ち溢れていた輝かしい天才詐欺師としての力量を存分に発揮
したということができる。 >104
>科学上の学説にしても、新しい説を唱え出した者は、その時代のちょんまげ階級から
異端者扱いをされ、酷い目に遭わされた事績は人の知るところで、彼のコペルニクスや
ガリレオなどの地動説などもいい見本であろう →茂吉のこさえた謬説について、宗教的迷信に対する科学上の真理と同等に見ているが、
何とも情けないというか、考えるだけ馬鹿らしくなるようなものである。
コペルニクスの地動説について、カトリック教会では聖書を基準として天動説を唱えて
きている。旧約聖書の物語は科学的に見るものではなく、霊的・歴史的・考古学的など
で考えるべきであり、科学的に証明された理論と一致するものではない。人間としてあ
るべき生き方についても教えているし、また精神的安堵感を与えられるようにもできて
いる。それは仏教でも同じである。
茂吉は自分の造作理論を伝統的宗教の理論とは比べ物にならない科学的真理と合致した
教えであると自負しているが、自ずから天動説こそ自分だけに知らされた絶対的真理
などと吐露していて、全く議論する余地すら無い。 ガリレオの進化論にしても同様であり、猿人からすみやかに進化して全生物を支配する知能
を有したということだけでは説明がつかない。
またアダムとイブの楽園追放の経緯など、科学的真理を示唆しているともいえる。
茂吉の吹聴した、宗教的天地創造や人間進化の道のりについては全て迷信であり、
科学理論のみに頼るという考え方は浅薄であり、また迷妄と苦悩へ導くものだろう。 >現代文化に対し、私としての観方を率直に言えば、驚くなかれその大半は恐るべき
迷信に陥っているのである。そこでこれを大別してみると、三つの大きな迷信がある。
第一は医学迷信、第二が肥料迷信で、第三が無神迷信である。この内最初の二大迷信
は常に説明しているから、ここでは略すとして、第三の無神迷信であるが、これも今
まで相当唱えては来たが、まだ言い足りない点もあるので、ここでかいてみるが、言
うまでもなくこの世に神などはありはしないという無神思想である。それがため反っ
て有神論者を目して、迷信とみなす逆迷信である。これなども森羅万象に対し、心を
潜めてよく検討すれば、神の実存が分らないはずはないのであるが、そこまで研究し
ようとする人がまことに少ない現在である。 →現代社会は恐るべき三つの迷信に陥っている。
第一は医学迷信
第二が肥料迷信
第三が無神迷信
ということだが、私もそう思う。
第一に岡田茂吉製、浄霊ペテン医学。
第二に無肥料、増産増益迷信。
第三に茂吉翁創成、無神論を基礎とした蛇神信仰。 >有神論者を目して、迷信とみなす逆迷信である。これなども森羅万象に対し、心を
潜めてよく検討すれば、神の実存が分らないはずはない →モッキー岡田は随分とご立派な言辞を並び立て、さも神の実在を知り得た覚者を
気取っていて酔いしれているのだが、
私がみたところ、モッキー岡田は知識的理論的に神が存在するのではないかな? くらいな認識しか
無いということですね。ましてや霊界など霊視できるご身分ではなかった。
神の実在や仏・如来様を覚知しているのであれば、大本教で出口王仁三郎がこさえた
蛇霊など祀らせるわけはないということですね。 >105
唯物教育を散々叩き込まれた結果、無神思想になり切っているからで、いつも言う通
り野蛮人が空気は見えないから、無いというのと同様で、何と未開人的ではなかろう
か。従ってどうしてもこの無神迷信を打破し、再教育をする事こそ、文化向上の最緊
要事であって、それより外に真の文明世界実現の方法は、決してあり得ないのである。 →モキリスト岡田は日本人の大半が無神論者になりきっていると言い切っているのだが、
ご自分のことではないだろうか。現代日本人は霊界について見えないから存在しないと
いう野蛮人同様の思念を具えているので、霊界教育をすれば日本文化は躍進するという
ことだが、肝心のモキリスト岡田自身が霊界への霊視などほとんどできない論師で
あり、様々な霊界に関する説明をされている書物からの貼り合わせをやっている表具師で
あって、宗教の理論から、霊界あるいは神仏に関する認識まで、全て他人様が公表した
文献からのパクリでしかない。 >106
>次に今日割合人々の軽視している彼の世俗迷信である。すなわち暦にあるヤレ大安、
仏滅、先負などという馬鹿馬鹿しいと思う程の迷信が、案外人心に喰い入っている。
また日のいい悪い、家相、方位、相性などもそうであって、こういう迷信は東洋ばか
りかと思うと左に非ずで、西洋の方も案外負けないようだ、彼の十三日金曜日なども
それで、ホテルや病院の室も十三の数だけ省くそうである。これはキリスト受難日か
ら生まれたものであるが、面白い事には科学の進歩した国程、反って迷信が多いとさ
れている →いかにも自論を振り回して悦に入っているようなモッサリ岡田尊師ではあるが。
自ら気づき、考え出した見方ではないですね。
浄土宗の法然上人あたりからのパクリでしよう。
法然上人という方は一言で言うと、物忌みについて一切考える必要がないと
いう発想の方であり、占いから、魚食、から神社参拝まで、特に禁じられることもなく
どうぞご勝手にしてくださいとして許容された人です。
そういった論旨をそのままパクリ、如何にもモッサリ岡田尊師が自家製で造った
レシピに元付いているような言い方ですね。
他人様の説を借用しているにも関わらず、俺が考え出したというやり方がモッサリ岡田
尊師流といったところですね。 ※この場合はパクリではあるが、逆の説明をしているパターンです。 >107
>実はこれが理屈に合っている事を次にかいてみよう。〜科学的合理的にすれば、万事
は都合よくゆくと思っているが、不思議にも事実はそうはゆかない。意外な結果となる
事が往々ある。例えば病気にしても、〜仲々治らず、死ぬ事さえもあるし、〜また交通
事故などで不時な災難を受けたり →科学が発達している国ほど迷信が多いということで筆頭にドイツをあげているが、
その説明として、
@医者に頼っても病気が治らない。
A交通事故に遭うことがある。
という全く意味の無い説明をし、
更に丸で関係のない、金持ちが病気で貧乏人が健康であるとか、その他役に立つと思った
人間がそうでないとか、モッサリ岡田尊師はアホらしい解説を続けている。 >108
>以上のように寸時といえども、安心の出来ないこの娑婆としたら、科学だけでは安心
出来ないのはもちろんで、他に何らか頼りになるものを求めるのは人情である。そこ
で昔からの言い伝えや、世間ありふれたものの中から、少しでも安心の助けになりそ
うなものを利用する訳だから、これらも全く科学不信の結果、余儀ないので、結果か
らいえば科学が迷信を作るといっても、間違いではないであろう。 →これらの内容は科学によって迷信が醸成されるということとは無関係である。
世間よくある不慮の事故などの例証でしかなく、科学や迷信とも何等関係がない。
関わりの無い説明をしておきながら、結論として科学というものに不信が起きるから、
迷信を造っているというが、何も解き明かしていることにはならない。
馬鹿らしい内容である。 >108
>実に不安の中で呼吸しているのが人間である。それがため政府においても、ヤレ何々保
険、何々補償法などといって、各種の災害防止法を熱心に行っているが、これらもな
いよりは増しだが、到底根本的解決とはならないのは衆知の通りである。以上のよう
に寸時といえども、安心の出来ないこの娑婆(しゃば)としたら、科学だけでは安心
出来ないのはもちろんで、他に何らか頼りになるものを求めるのは人情である。 →事故・災害の際の保険会社との契約などが無いよりましであると軽視している。
不慮の事故や罹病について常に不安があり、それが科学だけでは安心できないとしているが、
意味不明である。
これは"科学"というところを"茂吉の教えに"入れ換えるとよくわかる。要するに茂吉の
教えを信仰していくと、想定外の事故や損失が慢性疾患のごとく続いて起こる。これによつて
茂吉自身の説は迷信であると思わざるを得ない。
こういった事実があり、
それを科学に押し着せしているにすぎない。
であるのでおかしな内容の文章となっているということである。 >科学だけでは安心
出来ないのはもちろんで、他に何らか頼りになるものを求めるのは人情である。そこ
で昔からの言い伝えや、世間ありふれたものの中から、少しでも安心の助けになりそ
うなものを利用する訳だから、これらも全く科学不信の結果、余儀ないので、結果か
らいえば科学が迷信を作るといっても、間違いではないであろう。 →科学に頼っても不安が生じるので、その間隙に占いや家相、方位、相性というくだらない
迷信が入り込んでいる。だから科学によつて易者たちがやっているくだらい迷信が成り立つ
ということだが、疫学については中国から伝統的に行われている歴史のあるもので迷信ではないですね。
茂吉の狂説を信じる方がよっぽど不安になります。 >109
>ところが本教の信者になると、実に不安というものがなくなる。これはお蔭話に沢山
出ているから読めば分るが、現在の世の中で本教信者くらい安心感を得ている者はある
まい。といっても禍いは絶無とは言えないが、それは世の中に罪穢の全然ない人はない
からである。しかしたとえ禍いがあっても、その原因がハッキリ分り、禍いは浄化であ
るからそれが済めば幸福が増すという楽しみがあるので、反って感謝の念さえ湧くか
ら、結局不安のない人間となるのである。 →茂吉信者ほど世の中で安心感を得ている者たちはいないということだが、事実は逆で
ある。信者達は常に病気になる不安に満ちている。そして浄霊漬けである。そして、
他人様はなぜ病気にならないのかといつもいぶかっている。自分達と同じように不安を
かかえているはずなのに、毎日明るく闊達に仕事をしていて、経済的にも裕福なに人も
沢山いる。これは実に不思議ではないか? と信者たちは疑念を抱いているのである。
これは端的には蛇神を拝まされていることにより、必然的に病気になりやすく不安に
包まれているためである。そして知能に関しても繊細・精密な部分というものは暗くなり
暗室のようなところで作業をするような状態に陥っているので機能としては不能になっている。
知的障碍者にさせられているために、社会で幅を利かせることもできないので、いつま
でも人後に落ちる経済状態のままである。 →不安と様々な災いが慢性的に惹起することは蛇神信仰を続けている以上、必然的な結果
であるのだが、それが浄化であるとして多額の献金をさせている。
蛇神に全財産を移譲することにより、完全に守られ救われるという錯覚的安心感から、
幸福になるということだが、現実には哀れな貧乏老人として人生の終末を迎えている
長老信者がほとんどである。 >109
>仮に家を探す場合などもそうで、神様の御守護で思っ
た通りの家が見つかるか、もし見つからなければ、まだ時期が早いから待てという意
味で、いずれは予期以上の家を与えられる奇蹟は常にある。万事がそうであるとした
ら、文字通り安心立命の境地に住し、迷いなど起るはずはないのである。すなわち標
題のごとく、本教には迷信がないと言う事が分るであろう。 →蛇神の霊力で、住居を探すと極上格安の物件が手に入るということだが、信者たちの
住居はと言えば、築50年落っこち便所付き、あるいは狭い連棟式アパートの一角で子供
二人と家族四人で暮らしている。ベッドもおけない狭い建売りで、居間は寝室を兼ねている。
また、晩年に風呂無しアパートで老夫婦暮らし、毎月いくら献金したということが自慢の種
で、旦那は癌で亡くなり、本人は認知症になり、何もわからなくなって亡くなりました。
一般的平均的なサラリーマンがローンを組んで住むような建売り住宅にすら、住めるような人
は見当たりません。 >文字通り安心立命の境地に住し、迷いなど起るはずはないのである。すなわち標
題のごとく、本教には迷信がないと言う事が分るであろう。 →献金をしたり、積極的に活動という老人会に出席したりするのは常に不安があるという
ことですね。茂吉自身が仏様やキリストまで揶揄していることにより、信者の精神状態
はガタガタになっている。それを表面上だけ笑顔にしろとか笑う練習をしたりとかしてますが、
精神病者たちのリハビリのようにしか見えません。精神的に弱いとかいうよりも精神性を
根っこから引き抜かれていますので善悪も理非分別も何も感じなくなってくるようになる。
人間としての正常な感覚など信者達には消えていますね。 禁欲
『信仰雑話』P.31、昭和23(1948)年9月5日発行
昔から立派な宗教家たらんとするには、禁欲生活をしなければならないように想われ、
それが真理を悟り、魂を磨く最良の方法とさえ思われていた。しかし私は反対である。
以下判りやすくかいてみよう。そもそも、森羅万象一切は人間のために存在している事
である。見よ、春の花、秋の紅葉、百鳥の囀り、虫の啼く声、明媚なる山水、月の夜の
風情や温泉等々は、何が故に存在するのであろうかという事を考えなくてはならない。
いうまでもなく、神が人間を楽しませるために造られたものでなくて何であろう。また
人間が謡う美しき声や、舞踊や、文学芸術等も、もちろんそれによって当人も楽しみ、
他人をも楽しませるのである。それのみではない、人間生活においてあらゆる美味なる
食物はもとより、建築、庭園、衣服等も必要のためのみではない。より娯しむべき要素
が含まれている。飲食を楽しむことによって、栄養となり、生命が保持される。住居も
衣食も必要だけの目的であれば、甚だ殺風景のもので済む訳である。子供を造る事も必
要の目的のみでない事は言うまでもない。以上のごとく大自然も、人為的のあら 尊き一生を捧げたという事は、神の恩恵に叛く訳になろう。それに気付かない世人は、ゆる
物も、一方それを楽しむべき本能を神が人間に与えられている以上、それを娯しむのが
本当である。それを拒否し、生存上必要のもののみに満足するという禁欲主義は、深き
神の恩恵に対する背反的考え方である。また他の方面をみる時、今日までの特権者が
利他的観念に乏しく、自分や自分一族の者のみの快楽に専心し、社会や他人を顧慮せ
ず、衆とともに楽しむという、人類愛的思想の発露が余りにもなかった。それは神の
恩恵を独占する訳になろう。この意味においても、私は富豪の大庭園を開放し、美術品
を公開し、衆とともに楽しむべきが神慮に応えるゆえんであると思う。翻って想うに、
いにしえの聖者が粗衣粗食極端なる禁欲生活をなし、「祖師は紙衣の五十年」的生活に
宗教家を観る時、禁欲者でなくては有難くないように思う傾向があるのは遺憾である。
私は前述のごとく、禁欲に反対であるから普通人と同様の生活を営んでおり、これが
神意に添うものと考えている。従って地上天国とは、人類総体の生活が向上し、 ゆる物
も、一方それを楽しむべき本能を神が人間に与えられている以上、それを娯しむのが本
当である。それを拒否し、生存上必要のもののみに満足するという禁欲主義は、深き神
の恩恵に対する背反的考え方である。また他の方面をみる時、今日までの特権者が利他
的観念に乏しく、自分や自分一族の者のみの快楽に専心し、社会や他人を顧慮せず、衆
とともに楽しむという、人類愛的思想の発露が余りにもなかった。それは神の恩恵を独
占する訳になろう。この意味においても、私は富豪の大庭園を開放し、美術品を公開
し、衆とともに楽しむべきが神慮に応えるゆえんであると思う。翻って想うに、いに
しえの聖者が粗衣粗食極端なる禁欲生活をなし、「祖師は紙衣の五十年」的生活に尊
き一生を捧げたという事は、神の恩恵に叛く訳になろう。それに気付かない世人は、
宗教家を観る時、禁欲者でなくては有難くないように思う傾向があるのは遺憾である。
私は前述のごとく、禁欲に反対であるから普通人と同様の生活を営んでおり、これが
神意に添うものと考えている。従って地上天国とは、人類総体の生活が向上し、芸術
その他の清い楽しみは大いに発達する世界をいうのである。また真善美という事は、真
とは偽りのない事であり、善とは正しい行であり、美とは美しい事であるから、禁欲生
活においては善はあるが、真と美がないばかりか、返って文化の進歩を阻止する事にも
なるのではないかと思う。彼のインドの社会が精神生活のみに偏した結果、今日のごと
き文化に遅れ、沈滞せる国運を来たした事を考えるべきであろう。 >153
>昔から立派な宗教家たらんとするには、禁欲生活をしなければならないように想われ、
それが真理を悟り、魂を磨く最良の方法〜しかし私は反対である。
そもそも、森羅万象一切は人間のために存在している事〜神が人間を楽しませるために
造られたものでなくて何であろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています