>>915
これじゃないですか?

仏教から見る死(中)
 V.F.グナラトネ師
https://j-theravada.net/dhamma/oriori/%e4%bb%8f%e6%95%99%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a6%8b%e3%82%8b%e6%ad%bb%ef%bc%88%e4%b8%ad%ef%bc%89/

『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』(清浄道論Visuddhi Magga)

清浄道論だからブッダゴーサさんですね。
これは因果関係は認めますが、その業の主体者はいませんよ、と無我論に基づいて断定しているわけです、が…

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<霊魂jīvaṃと身体は同一である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<霊魂と身体は同一である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<霊魂と身体は各別である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<霊魂と身体は各別である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7061601.html

とブッダでも踏み込まなかった、無記としたことにまで踏み込んでいるような…(我attaではなくjīvaṃだから無我とは関係ないと言えるのかどうか?)

まあしかし、ブッタゴーサさんでも業や果報は認めていますね。


一方、六師外道のアージーヴィカ教の開祖となったマッカリ・ゴーサーラは宿命論を説きました。

「生けるものには、汚れの直接原因の「因」も間接原因の「縁」もありません。因縁に関係なく汚れるのです。因縁に関係なく清浄になるのです。
すべての命あるものは、自在力もなく、偶然の結合と本来の性質とに左右され、六つの趣く先(六道)において安楽や苦痛を感受します。そして輪廻を繰り返した後、ようやく「苦」の終滅を実現するでしょう。ちょうど毛糸玉が投げ出されると、糸がなくなるまでほどけながら転がっていくように、ようやく「苦」の終滅を実現するでしょう。」

マッカリ・ゴーサラについて更に詳しくはこちら
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9