>>781
天女はしれっと言いました。

「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」

シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」

天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」

シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。

「こ、これはオミソレいたしました・・・
貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」

天女は答えました。

「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
だからこそ、このように弁じることができるのです。
だってそうじゃない?
何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima026.html

この天女とシャーリプトラ(サーリプッタ、舎利弗、舎利子)との問答のなかでの天女の説法?には大乗仏教のエッセンスが込められていますね。

ちなみにスマナサーラ氏は、維摩経がサーリプッタ尊者の侮蔑の原点となった、みたいなことを「般若心経は間違い?」の中で書いていました。
この天女は(特に超訳の方は)大変痛快ですが、スマナサーラ氏の言うことも確かにと思います。