>>422
もとのお経は苦滅を直に説いている「二種の観察」というお経で、縁起をシンプルな形で説いているものでもあります。


「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。
どうしてであるか? 
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm