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ナーガールジュナ(龍樹)の実践的仏教理解・試論 : チベットに伝えられた伝統から
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=1589&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
より

>ナーガー ルジュナの著述でそのような仏教理解を示したものとして, 『中論』 18 章の 「もろもろのブッダは 「我 [が有る]」とも仮説し, 「我が無い (無我である)」とも説き, また「いかなる我も無く, 無我も無い」とも説いている」 (6偈) が挙げられる。
>チベットの伝統で重視されるチャンドラキールティの 『中論』註(4) はこの箇所を, それぞれ, 1不善をなす者に, それをやめさせるための教え, 2善はなしているが実体視に縛られている者に, 涅槃への渇望を生じさせるための教え, 3涅槃に近い者に, 我はないが無我もまた実体ではないことを説く教えとして説明している。
>他には 『六十頌如理論』 に, 「愚かな人たちは物体 (色) に愛着する。 中間にある人たちは貪りを離れる。 物体の本性を知る最高の智慧のある人たちは解脱する」 (55偈) という教えが見られる。
>釈尊が様々な異なる教えを説いた理由について, ナーガールジュナは『宝行王正論』で, 文法学者も初学者にはアルファベットから教えるという喩えを挙げ, 相手の能力に合わせて異なる教えが説 かれたと説明している。

…最後の段は法華経と同じような理屈?になってます(笑)

ちなみに説一切有部が法有を説いたのは、全てが無常・苦・無我だと仏説も悟りも保障されなくなるから、何か基準となる実体を求めた結果という説もあるようです(ていうか中村元氏がそのように著書「龍樹」の中で書いていました)