>>449 神も仏も名無しさん 2021/01/18(月) 11:24:40.52 ID:NHFlqfSl
>今回も八等至がアラカンの禅定だなどと、苦しい屁理屈を考え出した。

いや、正確に言うと、阿羅漢が禅定に入れば、それは八等至の自在なんて当たり前でしょと書いたのです。

>等至とは禅定のこと、禅定における心の状態です。
>解脱の意味はありません。

その通りですが、だから八等至であると同時に解脱もしているとしたのです。
八等至の自在が阿羅漢の禅定の特徴と言うか諸相ならば、禅定だけでは判断できない。
だから戒で占いから心が離れているのも阿羅漢の解脱者ならば当然の解脱の諸相だが、
それだけで全ての煩悩から解脱したとは判断できない。
だから片山氏もここは禅定に関する記述だから禅定としての最高到達点みたいの
八等至の自在と表現するのは当たり前のことなのさ。
これに対して、深山さんは戒定慧の順番で説明をしているという前提はさておいて、
この心に小さな煩悩も離れてという記述は単に八等至だけではなく、解脱の諸相の禅定以外の要素から考えても
これは解脱者のそれではないかと判断したのです。
戒定慧の順番で説明している経典の解説だから学者もまた禅定の完成者としての八等至の自在しかここでは出しませんよ。
総合的判断をここでする必要はないからです。
しかし戒定慧ごとに説明するという文脈の垣根を払って、深山みたいに総合的観察をするならば、
あ、これはもう解脱してるね、阿羅漢だねと判断するのは、もはや経典の文脈説明を超えた話で、
それをしたのです。

>もし四禅四無色定(八等至)がアラカンの禅定なら、もうさとりを開く必要はありません。

阿羅漢になっても死ぬまで禅定は続けますよ。
そして阿羅漢の禅定ならば八等至の自在から下回ることなく、いつだって八等至の自在のはずです。
それに私は昨夜四禅を終えたのだから八等至の自在なんて当たり前じゃないと一度は書いたものの、違うと気づいたのです。
八等至は四禅+四無色定の八定ですよね。
ところが沙門果経では四禅までの四定の実践記述しかない。
しかしそれなのにどうして八定全体の自在なのか?
ヒントは阿羅漢の禅定にあった。
ああ、阿羅漢を得た解脱者の禅定ならば四禅を修しただけでも八定至の自在じゃん。
つまりこれは八定至の自在を得ていたとは阿羅漢の解脱者だった証明になるんじゃない?と示したのです。