チベット密教では、見ている世界を外界、瞑目した識内を内界と言います、

修行法の一つに、閉ざされた闇の空間で長期間瞑想する行がありますが、これは外界の光を遮断して外物(光を発しない無明の物)を意識から外すものです、

つまりは、光を覚から分離します、すると最初は目が見えないので何も認識できませんんが、覚=如来=光であるので、一月もすると内界の識に映像が見え始めて、一つの世界が展開されて行きます、それは実世界と寸分違わないとされています、

このことから分かるのは、衆生が如来と言うのは部分的な意味であって、全体としては如来とは現象世界そのもので、これは二元でありますが、事実不二にして一でもあるのです。