人間の心は、時間・空間たてよこの一点に立って、
一方には現象界を眺めつつ、他方には、実相界を眺めつつある
そのどちらかに波長を合わすかは本人の自由である

この点において「人間の心」は自主権を持つのである

我々は今まであまりにも現象面のみを見、現象の混乱を見、
現象の不調和を見、現象の葛藤を見、現象の病気を見、
これらの現象の一切の悪しき面に心が捉えられ、心のレンズを
その方向にのみ振り向けて、さらにそれを大写しにして現象界の
スクリーンに映し出して、みずから映し出した影に驚いて、恐怖し、
萎縮し、生命の自由自在の発現を抑制するような、愚かしきことを
行ってきたのである

しかしこれからはクラリと一転、「実相・神の子」の姿に
振り向いて完全な姿を現象界に現さねばならない

人間の心は、時間・空間十字交叉の「中」の一点として、また「無」の
一点として現象にも実相にも、どちらにも振り向くことができるので
あるけれども、それはただレンズの方向転換をするだけのことだ

それを印画紙上に焼きつけ、またはそれをスクリーンに映し出すには、
大いなる光源を必要とするのである
その光源に当たるものが「宇宙大生命」の力であり、光である

我々は自分の心を「宇宙大生命」に振り向けることだ
あとの積極的な働きは「大生命」それ自体が行いたまうのである

イエス曰く
「われ自らはにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして御技を
 成さしめたまうのである」

この言葉は、この真理を道破しているのだ

だがしかし、心のレンズを「宇宙大生命」の方向へ振り向けるとは
いかなることであるか?

それは自己の想念に、宇宙大生命を想うことである

その善なること、愛なること、完全なることを想念するのである