断念の「あきらめる」に「諦める」という字をあてたのは瞑想実践者だというわけではないでしょう
そして仏教では「諦」は断念するという意味で使われていたわけではなかった

これに対して、「諦」はダブルミーニングになってるんだという主張は5ちゃんマインドフルネススレで今初めてなされているもの
(元々瞑想の構造的に内包されていたということとは別の文脈)
今までは仏教の「諦」は「断念」の意味ではなかったけど、構造的に「断念」も含むのだから、これからはダブルミーニングとして扱ってもよいのではないか、そういうことにしていきたいというのなら、それは勝手にどうぞというしかないけど、仏教の「諦」は元々「断念」の意味だったというのは勘違いでしょう