諦ということばは、"あきらめ"をさすように使われているが、物事を宿命的にとらえ、断
念するということではない。人生や物事の本当の姿、本質を"明らかにする"という意味で
ある。
(『仏教の事典』瀬戸内寂聴編著 p.59)

諦の訓読みは、「あきらめる」です。そして「あきらめる」とは、現代の日本語では、
「思い切る。断念する」という意味になっていますが、もともと「あきらめる」とは、
そんな消極的、絶望的な意味ではなくて、「明(あき)らめる」と言うことだったのです。
すなわち、明らかにする、物事の本質を明らかにつかむ、はっきりさせるという意味だっ
たのです。源氏物語の賢木の巻に「いぶせう侍る事をもあきらめ侍りにしがな」とありま
すが、これは、「気分がはれず、うっとうしい気持ちの原因が、何であったかを、はっき
りとつかむことができた」という意味なのです。
(『般若心経』遠藤誠著 p.89)