マインドフルネスPart.38
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※「反応してる」「妄想してる」など、単発他者評価レスで自己矛盾を人になすりつけるのはやめましょう。
※また他者批判のため「だけ」にレスをしないようお互い心がけましょう。
※「正統派マインドフルネス」とされるジョン・カバットジン博士
※またその源流である禅宗を尊重しましょう。
※(日本における)テーラワーダ理論はパラダイムの狭いものなので、あくまで参考程度に。
※大乗に包摂されるものという諒解でお願いします。
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネスPart.37
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1601187845/ >>199
すべてを初めて体験するものとして捉える心だよ
同じ繰り返しなんかなにもない 無条件降伏とかジャンプの話が執着に見えるのは、その人の心が映ってるだけですよ
それらを知っていたら執着と逆だと知っている
「雲→空」の疑似ジャンプですら、執着とは全く違う >>200
すると、自分の未だ知らないことを評価するようになるのかい? >>201
無条件降伏やジャンプの話を繰り返して強調するのは、状態への執着を「作り出す」と言っている 例えば、仏陀はこの世は無常・苦・無我だと言ったし
カルマは繰り返すものだ
全てのカルマを脱した阿羅漢でもない限り、
繰り返すものがなにもない、なんてアタマで盲信しているだけだぞ? >>207
いいや、こんな事は阿羅漢でなければ言えないね
> 200 神も仏も名無しさん sage 2020/10/13(火) 12:39:15.57 ID:lENFP8iv
> >>199
> すべてを初めて体験するものとして捉える心だよ
> 同じ繰り返しなんかなにもない アスペさん的には、世の中は同じことが繰り返されてるだけだから
毎日朝から晩まで5ちゃんで、戯論_でもないな戯れ言を書き続けてるってわけですか 仮に「無条件降伏とはこんなことなんだろうなぁ」と思い描いても
それに執着して、目標にして、やろうとしても出来ないよ:D あらかんなんかじゃなくたって、毎日同じことなんか無いのは分かるだろ >>213
じゃあ、カルマとか言ってるのはアホなインド人の戯言なんだね? >>212
だから、そんなことばかり毎日繰り返し書いてるのは何も意味がない >>214
アスペさんのカルマはアスペさんが日々こうやって積み重ねてるだけ >>218
君は話見えてないんだから意味ないだろうね 初めて体験しようとしているでしょうが
それがだめだって言ってるの
ホントに執着なし期待なしの初めてじゃないとならない
または執着したあとどんづまって、やっぱり自分じゃ無理なんだと諦める必要がある。
諦めて忘れてた頃に失せ物が出てくるのと同じ。
意図的にやろうとすることは全部だめ >>215
違うな
だから執着を生み出すとか空想のことを主張する意味がない とっかかりは意図的にやらない限り、慈悲の瞑想だろうが只管打坐だろうが実現できないよ 何で自分の知らないことに文句つけて、論点ずらしたり矛盾したまま頑張るんだろう?
それがビキナーズマインドなのかい? >>221
こうやって5ちゃんで遊んでることなんかに瞑想的な意味なんか何もないよ >>224
なんだ、そこを放棄するなら君自身意味ないじゃないか
人に意見するなよ 昨日また発狂したし
すみません。仕事には荷が重いので。
もっかいできることします >>225
最初に慈悲の瞑想を唱えようと思ったら、その時点では作為はあるでしょ ほんと、わかってないことをわかったつもりで言うよね
ビギナーズマインド忘れてるよID:lENFP8ivは >>230
とっかかりの話だって言ってるじゃん
そこを意図的に取り違えるのは詐欺師だし、気づかずにやってるなら天然だと >>231
そう、ならNGするね
>>185-186も間違ってるし、遊びということでいいね ハマーンは意図的にも慈悲の瞑想やらないじゃん‥
意図的にやったことでもドンづまりまで行けば執着は取れる
ほんと言葉の受け取りたいところしか見ないで批判するよね アスペさんにとってのビギナーズマインドは、自分の話を黙って聞けとかいう、都合よくねじ曲げたものでしかないだろ >>233
僕は瞑想中に発見したのでね、慈悲の瞑想は
作為は一つもないよ これ、ほんとに初心者にはわからない話なので
「ごめん、オメーの話わからん」で良いんですよ >>237
一般論で言ってるんだよ
何で知らない人の個別の例なんか話すよ 誰がハマーンやねん
リアルでキチガイなんじゃないかコイツ >>241
君の言ったのはこれだからね
> 222 神も仏も名無しさん sage 2020/10/13(火) 12:56:18.65 ID:lENFP8iv
> とっかかりは意図的にやらない限り、慈悲の瞑想だろうが只管打坐だろうが実現できないよ 掌の感覚を感じようとするのも、とっかかりでは掌に注意を向けなきゃ始まらない
それと、出来た状態をごっちゃにしたまま曖昧に話を続けるから無茶苦茶になる 数息観はドンづまりまりどころか
300回もできた!という達成感を生むようだからね
ソースはハマーン
しかも、承認欲求まで満たそうとしてTwitterで実況報告ww >>244
「降参しなきゃ」という思いを作ってしまいますね >>245
注意向けても出ない人は出ない
それをキッカケに出そうとしても出ないよ >>248
とっかかりでは、注意を向けなきゃ始まらないと言ってるんだよ
結果の話なんかしてない >>249
だから意味ないんだよ
ただの遊びだこんなの 悪いなと感じてるうちはあんま悪くない。
重いので、ってこともある
仕事とかで。
本当に悪ければ、なんか違う状況になり、 >>252
数息観だってラベリングだって、とっかかりとしては同じ
ちなみにどっちもやってないからね俺は >>255
原理は同じであることは書いた通りで君の主張とは違う
またその過程でもたらすものは違うな
戯論止めような >>257
とっかかりの話をしてるのに、何で自分の思いの朴に話を引っ張ろうとするかな 戯論製造が止まらないみたいなんで
悪いが無視させてもらう
残念ながら全くそこまでの話に届いてない勘違いクンだった 「夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく,飲食(おんじき)節あり。」
(意訳)
「さて参禅するには----
(大体,参禅とは,この我をなげ出して坐禅に「マイッタ」と「降参する」ことであり,
つまり坐禅というカタチにすべてをまかせてしまうことであるが)
まず静かな所がよろしい。
食べすぎていても,腹がへっていてもよくない。」
つまりね、人間行き詰まって死ぬしか無くなった時に死んでもつまらないわけ
そうなる前から、坐像を狙うことを心得にして坐る習慣があれば
へたり込んで無条件降伏で坐ることが出来る
だからジャンプが起きてマインドフルネスの領域に行く
それは作為ではないよ、坦々と何も狙わずにやることだ
慈悲の瞑想も、他の瞑想も同じ
行き詰まりの絶望の受け皿を作るということ
数息観もラベリングも狙うものなんだよ
妄想を嫌悪し、妄想のない状態を渇望する、強い煩悩で対象にしがみついてるだけ
それを自動化しても形は失わない ところで山下さんのところはもう3年以上は
お弟子さんというか受講者というか
教えている人が何人かいると思うんだけど
結局預流果程度に目覚めた人は出たのかな?
それともこの段階までくるのが他と比べて
明らかに早いという感触とか
こういう集まりはそれまで
他のメソッドをやっていた人が殆どだろうから
純粋に山下メソッドがどうこう言えない難しさは
あるとは思うんだけど
ヨガやってた女性とか神父さんの話は聞いたこと
あるんだけど
他のメソッド経験者だから何とも判断しづらい
既存のメソッドの組み合わせだけど
その配分とか重点箇所の強調とか
そういうのが今までと違って効くんじゃないかって
話だよね? だからそういう言い方するなら、とっかかりとしては掌に注意を向けるのも呼吸に集中しようとするのも、妄想のない状態を渇望するとこから始まるだろ
とっかかりの作為を否定したら、何も瞑想なんか出来ない 山下さんのところも四向四果は関係ないと思うよ
心のお掃除モデルではないし 瞑想の構造を話すことに夢中になる人を作り出してるだけみたいな 数息観もビギナーズラックは起こるようだね
そこで取っ掛かりとはならずに、執着おこして300回も 仏教本を読むことに疲れてきたから
池田晶子さんの本買ってみたよ
なかなか興味深いし、マインドフルネスを仏教とは違う言い回しで表現してるから、気付かされることも沢山あるね。 私はティクナットハンさんと山下さんの本買いました。届くのが楽しみです。 ティク・ナット・ハンは言ってることがアスペ式マインドフルネスとだいぶ違うから、アスペ式マインドフルネスの信者の方は戸惑うかも知れない。 ティク・ナット・ハン 怒りの炎を抱きしめる Embracing the Flame of Anger
「腹が立ったときは何も言ってはいけません
何もしない方がいいです 自分に戻ってゆっくり息を吸って息を吐きます それを何回かして何か行動を起こす前に怒りの面倒をみてあげます これは平和の行動になります すぐに反応したりしないんです
自分の怒りの面倒のみかたを知っていればゆっくり呼吸しながら「今のはカチンときた でも別に反応して行動する必要はない」とわかりますし
「この人は今幸福でないからあんなことをしたのだ」と思えますからその人に対して思いやりを持ち微笑みます これは大きな勝利です」 慈悲の瞑想は作為ではないよ
作為では無い証拠に、ハマーン北川進撃のカレーパンは慈悲の瞑想が出来ない。
作為と思うならさっさとやればいい
苦手な人の幸せを願うとき、無条件降伏が起きている。煩悩を消した人でなければ、苦手な人というものはいるのだから。そこで抵抗感持ちつつも願えるなら、少しずつ無条件降伏が起こってきている
私、生きとしいけるものの幸せを願うとき、エゴが強化される対象が消えている。 そうなんですね、苦手な人の幸せを作為的ではなく自発的に思う時、
それが無条件降伏だと。 山下さんは仏教3.0を行なっていると思いますが、
心の問題を直そうとする働きが、仏教の力にもともと備わっているものなのか、疑問です。
仏教2.0が自分の心の問題を無視してとにかくメソッドを頑張ればよかったと思いますが
其れだと逆に心の問題が解決されず大きくなっていくらしいですね
つい最近思う事は、私がよく感じる毎日の小さな不安の数々のせいで、
自分らしさを発揮できずにおざなりになっているような気がするのです。
他人に迷惑のかからないほどの小さな不安なので生まれてからずっとそのまま過ごしてきました
でもそれじゃあいけないと思い、抗不安薬を処方してもらいつつ、
マインドフルネスを目指す、という方法はいかがなものか?やってみるとどうだろう?
不安が晴れて人間関係も多岐にわたるようになり瞑想もしやすくなるのか?
と思ったのですが、もしそうなった場合のシミュレーションを今しているところです…^^;
でも、なんだかそれは悪いことをしているような感じもするし、逆に
不安がおさまらない自分の手助けになるような良策、としても思えるわけです。 瞑想では、ハマーンが幸せでありますようになんて願いながら、普段はネットで
「ハマーンはウサに話しかけるなと言ってるだろうが!」
なんて発狂してんのか
瞑想オナニーやね 自分の好き嫌いで評価してるだけなんだよなぁ…
北川麻子
@rxNyQnGqmjzFyim
#スマナサーラ長老 式 #慈悲の瞑想 は 所詮自慰行為と私は主張しています。 脳波とかの効果はあるのでしょうけど やらないのは無慈悲の証拠とか言って 強要しないで #山下良道 ワンダルマSO 気色悪いから >>274
嫌な奴の幸せを願うのはなかなか苦しい
でも相手を憎む憎しみを抱えて生きることが自分をとても疲弊させていたんだよね
だから自分を大事にしようと思って慈悲の瞑想してる
私が幸せでありますようにと願ってるよ >>275
不安に伴って現れてる体の感覚をよく観察してみて下さいね
感情や記憶でなく
感覚が去るまで観察は言葉は用いず、自然に呼吸をします
なんなら目を閉じてもいいです
2.0は心の問題の原因の分析、心のお掃除です
1.0, 3.0は本来清浄なもうひとりの自分がいるよね、ということです 1.0と3.0は無我ではないんですね
もう一人の自分ということは、清浄であるという違いがあるだけで
全く同じ姿かたちをした自分という存在がもう一人いると 本当は慈悲の瞑想はジャンプしないと入らないです
凡夫のσ(゚∀゚ )オレには慈悲はないんです
σ(゚∀゚ )オレ自身の幸せすら願えません
もう一人の自分には凡夫のσ(゚∀゚ )オレの幸せは願えます
何故なら自分が作ったものだから
この肉体からしか世界が認識できないという意味では自分=この肉体ですが
この肉体から認識できることは全て自分です
どういうわけかここからしか世界が開けていない
だから、凡夫のσ(゚∀゚ )オレの幸せを願えるということは
他者も、世界全ての幸せを自分の事として願えます
慈しみも苦しみも喜びも不苦不楽の平静さも、全て自分の事
それを言ってるのが>>2の詩ですね
本当の名前とは仏陀です
誰でも人のもう一人の自分は仏陀です(阿弥陀様でも涅槃でも空でも同じ)
その二重構造性です
ですから、無量光としての仏、阿弥陀様が、この凡夫のσ(゚∀゚ )オレに向けて言ってる言葉として
慈悲の瞑想を唱えれば良いんです、復唱です
>>280
無我ですよ >>280
> もう一人の自分ということは、清浄であるという違いがあるだけで
> 全く同じ姿かたちをした自分という存在がもう一人いると
違います >>282
じゃあ、もう一人の自分ではないということですね >>285
言葉で説明できないことを掲示板に書き連ねるのは何故ですか >>286
本当にマインドフルネスの実践者なら十分通じるでしょう >>287
「もうひとりの自分」という表現で誤りなく正確に言い表せてるんですか 言葉に出来ないことを言うなと云うならば
お釈迦様も言葉に出来ないことを伝えようとされたよね >>274
真に自発的に思えるときは既に苦手な人ではなくなってるかもしれません。
そこまで極端にどちらかにポジショニングする必要はないです。
苦手な人の幸せを慈悲の瞑想で願う時、
願いたくない自分と
心から願っている自分の両方があらわれているのです。
願いたくない99%
真に願う1%
くらいかもしれませんが、
この1%は既に作為ではない、無条件降伏ということです。
作為では心で舌を出しながらやるのも無理です。
舌を出しながらでも始めれば、もはや無条件降伏がごくごく僅かながら起こっています。 >>290
野良さんも「もうひとりの自分」と聞いて、自分と同じ姿をしたもうひとりの自分を想像しないと思いますか >>293
>>281で説明したとおり
>>294
言葉で伝えようとしたから、弟子に書き残すように言い遺したでしょ
>>295
それがもう一人の君ですよ >>280
本来清浄な人の形をした別の自分が居る
なんて1.0には書いてありますか?
ともあれ、そこにならなければマインドフルネスなんかありません
必須事項です >>296
・>>281の説明を読んで仏陀だ阿弥陀だなんて聞いても、思い描きを作るだけですよね
・書き残したのは、弟子が集まって勝手にやったことでは
・「君」や「自分」なんていう個別性を表現した言葉が似つかわしいものなんですかね
>>297
「もうひとりの自分」という表現は、ものすごく誤解を呼ぶ表現では >>298
君のエゴにとってはそうなんでしょうね、としか言えませんが…??
お釈迦様は弟子たちに覚えてる教えを書き残すよう言い遺してますよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています