>>847-878
・・・・・等々皆さんへ
前レスを少々補足しますが、厳密には弟子は「墓に行きさえしなかった」ですね。
あとこれは憶測ですが、マルコは「弟子全員がイエスを理解していない」即ち
「それより遠い後世の聖書編纂に携わる者はなおさら」でしょうね。


以下「釈迦に説法」で恐縮ですがwここを覗かれる方に向けてって意味でご容赦を。

現在、数万とも言われる聖書写本・断片が、改ざん内容を利用して
所謂「家系図データベース」化されており、あらゆる写本の出自が一撃で見抜ける様になっています。
あらゆる情報を元に改ざん地域・改ざん年代・改ざん理由が整理されており、
キリスト教神学という狭い世界から開放され考古学上の第一級資料となっています。

これらから、数万のうち、たった1冊にしか無い異文でも、真正判断が下せる状況です。
よって、写本勢力図による多数決というのは真贋判定条件からは完全に排除されていますね。

但し、原本が見つからず、更に原本そのものが真のイエスを伝えているのか?という大命題は
どーにもなりませんから、「よりイエスに近づく」だけで「永遠にゼロ」には到達出来ない。
要は聖書の「絶対性の担保」は不可能なのです。

マタイ・ルカ・ヨハネ伝は、マルコ伝だけでは無く「外伝」も多数使われていますが(ルカの冒頭に明記)
新約聖書に残っているのはマルコ伝のみで、且つ失われた文書が多いのは残念な事です。


・・ちょっとヤバい事書きますが
ルカの福音書=哀れみのイエスですが、マルコの福音書は本来「怒り」のイエスなんですよね・・