(続き)

例えば私も、少し前までエホ証的解釈とスタンスが真のキリスト教という考えを持っていた。

ところが、聖書を厳守するが為に多くの軋轢が生じざるを得ないエホ証の悲劇
(家族の非信者ですら、悪魔に唆された「選ばれない者」と認識する)に矛盾を感じ、
カトリックの緩いスタンスのほうが悲劇を産まない現実や、
プロテスタントの聖書批判研究にも正義があることに気付き、
そもそもの聖書の恣意的編纂・改ざんどころか、原文の時点で
多くの歪曲や複写ミスによる「聖書の絶対性が担保出来ていない事実」に気付いた次第で。
(例えばマルコ自体ペテロの話をどれだけ正確に記したのかおかしな所が何箇所かある、
マルコ伝の後半部で文章の書き方が全く違っている、イエスは怒ってたのに「哀れんだ」に書き変えられてる等)

因みに聖書ってのは、何千年前とは思えない改ざん防止の文章技法がテンコ盛りで、
それらしい1節を加えたり単語を変えるだけで改ざんがあぶり出される部分が多く、
単体でも改ざんサーチが可能という、実はすげぇ本なんです。
(とは言え神性の演出に使ってる暗号系はめっちゃヌルくて時代相応ですが)

っでこういうのを聖書研究所が纏め、分析し、公表し続けてるんですが
エホ証の新世界訳が最も研究成果を反映している。
ところが色々とヤバい発見があって、教義維持が不可能なレベルになってて取捨選択を編纂者が行っている。
この矛盾をスルーして聖書を絶対視って、論理破綻してますよね。
別に叩いてるわけじゃなくて、他の聖書はもっと酷いんですけど、どっちにしろ真実に目を瞑っている。

そんなこんなで、私は各宗派の神職全てから酷い罵詈雑言を浴びせられて、どこにも所属していません。
っが、そういう立ち位置に皆がならないと、真の宗教融和は無理だと思います。