ここのやりとり見てると、所謂「キリスト教」の問題点が如実に現れてるね。
根本的に新約聖書自体に問題があるんだけど、ややこしくなるからそれは置いて聖書起点に絞ると
「解釈と翻訳」に引きづられて極論が独り歩きして
対立と戦争と差別とジェノサイドを生んでいるってのがよく分かる。
「らい病(神による罪人への厳罰)を癒やす(許す)イエス」同様、
「世を愛する者」ってのを「現世に価値は無い」的なエホ証的解釈をするべきではない。
「現世の欲」の事を言ってるだけで、現世を捨てる様なとり方をするなら「イエスの愛」も同じでしょ。

例えば、釈迦が「愛は迷い」と言ったのはイエスを論破してるのでは無い。
イエスの愛ってのは釈迦の慈悲と同意。
少なくとも日本語版聖書では愛と訳されてる事象は3種類あり、ゴチャにされてる。

それをおかしな翻訳と解釈を鵜呑みにする人間が、キリスト教を殺戮宗教にしてしまっている。
あんま感心しないカトリックだが、彼等はそれを戒め、悪く言えば聖書を軽視するワケで
それを「反キリスト的」と取る原理的解釈は、もっと危険でしょ。
プロテスタント系の一派は、論理的に聖書矛盾を整理・正確化して、
真のイエスを復元しようとしていてドツボにハマってるが、それも信仰ゆえの正しいスタンス。
よく出る新興系のエホ証は、ハンパな事するからカオスになるのだってスタンスで
聖書絶対主義を取るが、それ故に生命としての責務を捨てた行動にならざるを得ない。

大体、イエスは旧約を否定したラビなんだから、ユダヤの旧約とパウロの新約が矛盾しないハズが無い。
「はじめに言葉ありき」で「言葉なのだー!」ってドコも叫んでるが、
そもそも「ロゴス」ってのは真実とか真理とか現物等、第一義は「物事の理」的なんだよね。

そういう、翻訳と解釈でどーにでも取れる不安定な文言を、「神の言葉」として絶対視して
行動すべきじゃ無いでしょ。
こじれさせてるのは人間そのもの。
こじれるような書物が、ホントに慈悲深い神の手によるものなのか?甚だ疑問ですわ。