「色即是空」と般若心経の深義9
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心経は多様な解釈を許す所があります。
では市販本に示される解釈が全てでしょうか?
個人的には、ブッダの「世間は陽炎の如し」の ”世間”を五(色)蘊に換えた
無常と無自性が合一したイメージを喚起する出世間の言葉と捉えましたが、
実際、空の意味として、陽炎の如しの言い換えともとれるⒶ無実体Ⓑ幻想・虚妄 以外にも様々な表現があり
例えば空を唯心と解釈したり、非我、人法二無我、(一即)一切、全、不二一元、虚空、エネルギー、波動、スーパーポジション、
真実には存在しない意、中身が無い、錯覚、般若の浅略釈、本質、仮のものは仮の現象と観察できる事、四諦を直観で見る事、
確率的にしか捉えられない不完全なもの、言語的に説明困難な真理を説く為のメタフォリカルな表現、妄分別・固定観念の破壊
五蘊を悪魔と見て遠ざける事、五蘊盛苦から執着を除き涅槃に到る道諦、形成作用の滅尽、識を越える事、自他無区別、妄分別の滅、解脱の因、
世間のいかなるものへも執取しない態度、正体は見掛け通りでない事、魄、執着の価値を欠く、依他起性、苦の因を滅し安楽(涅槃)に変える智慧、
法如、無戯論、プラクリティ、意識原理、感官から完全に悪魔を締め出した状態、
名付けられる前の世界、心の中心に具わるゼロ点、真実在、理法、清浄、無所有、平等性智、彼岸に渡った菩薩の心身のあり方、一切の顛倒夢想を遠離した境涯
現象の三世に亘る全相貌、六神通の素、アーラヤ識、如実知見、浄真如、万物の実相、非相、般若を世間法即涅槃と悟る為の方便、識の穢れを消すワイパー、
物の欠如した状態、理性と智慧の働き、菩薩乗(菩薩の生き方)、左脳の初期化・右脳のロック解除、法身を得た境地、究極的な物のあり方
誤った認識を断つ力、滅諦の実性 法則、宇宙の最上位階層に位置する「情報」、一境性、無色定で感得する微細な意識、主客無分別な現量、
無執着、一切に囚われない心境、完全に執着を離した状態の実現、 心解脱、如来の智慧が遍在する処、
仏智による世界の直観的認識術、高度な透視能力、全てを見通す性質、煩悩の滅尽、寂滅、一心縁起、宇宙全体、仏がいる処、仏そのもの
等々 幾らでも出てきます。(また全て、ブッダの心にある、言葉で表現される以前の無分別な究極のシニフィエとしての真諦=仏教の真理に目覚めた人だけが知っている実相を指します) 144神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 05:27:07.52ID:WanHkt8d
でおーの書き込みには
かわいがりマインドがあるが
真言の書き込みは罵倒。
145神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 05:30:28.34ID:WanHkt8d
真言はこれでも受戒したらしい(笑)
心において悪意に満ち
言葉は罵倒と自己正当主張ばかり
つまり
レベルが低い 真言て字ずらでしか捉えられないくせに迷信深くて他人に押し付けようとするよな 『華厳経』(八十巻本)第三十八、離世間品の本文に
「三界所有唯是一心」
『華厳経』(六十巻本)第三十六、夜摩天宮菩薩説偈品の本文に
「心仏及衆生是三無差別」
三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別
華厳からインスパイアされた道元の解釈。
『正法眼蔵』三界唯心の巻
仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも学ばな
いから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一心
ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教
えとは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)
増谷文雄の訳だから注意が必要
道元さんにとっての「三界唯一心」は「心仏及衆生、是三無差別」
という仏教の本懐の表明
福音伝道 2020/11/25(水)さんより マクロコスモスとミクロコスモスが本来的に一体(松長宥勝)
>「それぞれの個の中に全体が含まれている」という考え方が、東洋の思想に特徴的であると見做される。
その例として『ウパニシャッド』における、マクロコスモスとしてのブラフマン(最高原理)と、ミクロコスモスとしてのアートマン(個人原理)が、本来的に一体であるとする、いわゆる「梵我一如」の思想が取り上げられる。
また「全体との関連性を考えないで、一物たりとも存在しない」あるいは「森羅万象すべてのものは、同時に、全体的に生起する」という華厳哲学が引き合いに出される。
>宗教者がそれを内面的に把握したり、芸術家が象徴的に表現したりする「目に見えぬいのち」
>仏教ではこの永遠のいのちを体得した仏を、無量寿如来とも称し、あるいは久遠実成の仏ともいう。
密教では、宇宙の永遠のいのちをそのまま仏と見たてて、大日如来と呼んでいる。
松長宥勝『仏教と科学』(現代の宗教14)、岩波書店、1997年 ミクロのいのちが、マクロの宇宙のいのちと本来同体であるという考えかたは、インド古来のバラモン教の「梵我一如」の思想に存在する。
また大乗仏教の如来蔵思想や密教の仏と衆生の一体を目ざす瑜伽の観法も、基調としては異ならない。
ヒンドゥー教のタントラ派では、人間の身体と天体現象との間に密接な対応関係を想定する。
ヨーロッパにおいても、カバリストや新プラトン主義者たちもまた、大宇宙と小宇宙との間には調和があるため、人体の各部分と、宇宙のさまざまな部分とが共感し合うという。
(同上、pp. 173-174)
仏教においても、ヒンドゥー教においても、人間と宇宙が本質的に一つであるという認識に到達すれば、同時に現実存在がそのまま宇宙生命の顕現であり、相互に密接な関連性をもちながら存在していることに気づく。
現象世界の多がそのまま絶対の一にほかならず、一がまた無限の多として展開し、多はそれぞれたがいに内面的につながり合っていることが分かる。
以上のような「多即一、一即多」の思想は、大乗仏教では、基本的な構造としてもっているが、華厳の哲学ないし密教の曼荼羅の思想の中にも凝縮して示されている。 初期仏教
阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(@五薀が我である)としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(A我は五種を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(B我中に五薀がある)としたり、或いは存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっている(C五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する。
後世これを二十句の有身見という。上の@ABCが五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔@に当たる〕と我所見〔ABCに当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意である。 485の書き込み者は さとっていないと自ら表明した低能呻ごんですので要注意
>> 871
>業務妨害罪レベル
の発言について、問い質します。なんの業務をあなた方はしているのですか? 誰かが書いてたように
どこかのカルト集団が大衆洗脳のために何かの活動でもしてるのですか? 5chはあなた方の所有する場ですか?
スポンサーかなんかなのですか?
原始仏教とも大乗とも異なる独自見解でありながら、知識もなく、
悟ってない輩を真言宗氏などと呼んで人々を混乱させるためですか?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1606043705/879
を見るとコイツ、大山擁護派ともとれるし、
でおー自演説をかわすためのフェイントにも見える。いずれにせよ天部を否定するのは
既に真言密教に非ず。しんごん宗氏などと呼ばせるのは偽りである ┏━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┓
┃仏説摩訶般若波羅蜜多心経
┃観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
┃色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。
┃是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、
┃無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
┃無眼界、乃至、無意識界。
┃無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。
┃無智・亦無得。以無所得故。
┃菩提薩陀、依般若波羅蜜多故、心無掛礙、無掛礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、┃
┃究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
┃故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
┃能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。
┃即説咒曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
┃般若心経
┗━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┛ 唯識にも通じる浄土教の世界観
極楽浄土は思い描く事で初めて存在するようになるもの
牢屋にとじこめられていても極楽浄土に行ける観想
https://youtu.be/M6mezog5JbE?t=1972 空(あらゆるものを包含する虚空)と色(現象)の関係は、海の中の波のようなものである
ミクロの物理(素粒子の)世界では、時間は未来から過去へ行く存在がある 世の中は無知や勘違いによって偽りの価値が生じ、
それによって一部(というより実はかなりの部分)の経済活動が成立する面がある。
つまり経済生活や生殖関連行動等も幻想によって作られた恣意的な構造に支配され、一定のパターン化された結果に人々は追い込まれることになる。
結局、各個人の生活も共同幻想に支配されている。 色の無常・非我・不浄を観じ、
一切皆苦と見て、
愛着心や執着を厭い離れる それが苦滅より涅槃寂滅に到る
解脱への道である 5ch等の読み難い書き込みも
「凡夫衆生とは、このように自説に固執するものか」とか
「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由は是」と見るな
ら、全ての情報は資糧となり得る 意識が何かは不可知で
量子世界に固形物質は無く
エネルギーも時空もその本質が何か不可知
究極は三界虚妄 🙇
まさに
それが「空」であり。
真に幻の如き、無実体な現実の正体
という事
ただ意識は現実に実在性を感じたりはする。
が、それこそが幻想なのだ。 ver.2
意識の正体は一心で
量子世界に固形物質は無く
物質・エネルギーも時空も
その本質は
一心の縁起によって顕現したもの
であり、
究極は一心のつくりたる三界は虚妄
という事になる。
まさに
それが「空」であり
真に幻の如き、無実体な現実の正体
という事である。
ただ意識は現実に実在性を感じたりはする。
が、それこそが幻想なのである。 阿含は漢訳によって、色々混じってるようだが、
最も古層なのは「八頌品」と言われるもので、
十二支縁起なども直説でなく、後代発展させられたものと
わかる。 一心とは真如と同義であり、即ち「さとりの真理」です。
また禅宗や真宗の教説がよいと薦めるわけではないのですが、それらの宗派で積極的に
仏や祖師が悟られた「普遍の真理・真如」としての一心が
わかりやすく説かれ、参考になると思われますので転載しておきます。
「正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり、・・即心是仏
とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」
ここで言う「心」とは仏そのもののことで、また
自分自身が大日如来である事を認識し、確認し、実現しようと
するのが密教で目的とする即身成仏です。 悟っていない501が言うバカである。
大爆笑である。 501は人様にものを教わる態度でない
まず、人として失格、人格も何も出来てない。
どこかに覚者がいたとしても、そんなのには
教えんほうがよい >503
教わってるんじゃなくて 余りにも程度が低いから尋ねてるんだよ
で 真我説との齟齬はどう言い逃れるんだね? 笑 スリランカの原始人は空を理解できなかったし、
というか無我も土人なりの幼稚で短絡的な解釈に基づく伝承だったのだろうな
いや誤謬の発端は分別説部にある。上座部は滅んでいるので、上座部もそうだったかは
また別の話である スレ主ですが、レス番504の者こそ、数日前からあちらこちらに粘着して嫌がらせを
繰り返す荒らしと認定します。その素行の邪悪さ、我見への固執ぶりから見て、
本質的に非仏教徒であり、妄執の輩といえます。所謂イチセンダイでしょうか
誰も相手にしませんし、情報は以後与えません >現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、 >インドの古代思想が大乗仏教に大きな影響を与えた
宮元氏は、「自己」は「五蘊」から独立し、「五蘊」を照射するから「五蘊非我」であって「無我」ではないと主張する。
しかし、パーリ仏典長部・戒蘊篇U「第9 ポッタパーダ経」(片山一良訳)の「想と我の話」の中でポッタバーダ遍歴行者は世尊に
「想は人の我なのでしょうか。それとも想と人の我は異なるものでしょうか」と質問する。世尊から「あなたは、我をどのように了解しますか」と
問われたポッタパーダは世尊と三回の質疑応答を行う。
【1】我は、粗い、色があり、四大要素からなり、物質食を食べるものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。そこで、
ポッタパーダは別の考えを述べます。
【2】我を、意から成り、大小すべての四肢があり、欠けるところのない感官を具えたものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。そこで、
ポッタパーダは別の考えを述べます。
【3】我を、色がない、想から成るものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。 で 真我説とその後の説との齟齬は説明出来ませんてか? 一切は空なり。
教学というものも衆生や時の権力へ向け
仮設されたものであり、それ自体を絶対視し、執着すべきでなく、また過去の説というも
固定した一つの立場のみあるわけではない >英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、
パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、
それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。
現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。 ブッダは日蓮とは違う
ブッダは革命家ではなかった
自分は教祖ではない、という意味のことも言っている
思うに大乗とは、
ブッダという父とインドの伝統という母から生じた子供たちである
その中には
勝マン夫人のように、父親に説教する生意気な娘もいた
ブッダは革命家ではなかった
ブッダはインドの伝統を捨てた訳ではない
ただ覚りに到るための新たな方便を
全ての人へ向け提示しただけである 個人の潜在意識のコアの領域は宇宙そのものである
とするなら、華厳思想とも
梵我一如のインド思想とも合致します。根は同じなんで
しょうね。
>個人の阿頼耶識は、宇宙の阿頼耶識の一部分
けっきょく密教も
自己は大日如来の一部と覚っていくのが目的なので、そういうことになるかも知れません 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、
こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、
悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか
みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する
ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、
一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、
観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。
この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら
「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。
しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと
正しい判断ができない場合も有り得るのです。
このように考えると、誰だかのように
もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。 フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ
「五蘊と真我の関係」でした。 色は空なり とは、栄進も真言も大山も
中身は実質的に同じだということです。
それは何人も否めない厳正なる真実
なのです! >釈尊に説けたのは阿含経だけ ?
「空」も説いてますよ。ただその「空」の意味する勝義諦には
衆生には容易に理解し難い深さと広がりがあったので、その覚りの内容を推し量って
後に詳説されたものが般若経典といえる 般若経典には
失われた九部経にあった内容が保存されているのではなかろうか 現代版・九部経
@四聖諦、中道(転法輪経)
A空(般若.a) B五蘊非我 真我・涅槃
C八頌品
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読
D見諦道、彼岸に至る道
ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読 この馬鹿栄進、酢昆布(すっこんでろ)!!
どないしなはりましたんキチガイヌヤマはん?! ☆ ―⊂コヘ(^-^ 注射っ!
犬山敏郎 屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大 痔がヒデェ〜
ほらぁ、あの荒らし粘着糞雀鬼バカイヌヤマがウソブクのよ透ってないのに初関を40回も透ったと、それって初関を透る、じゃねーべよ。
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代がワンコインで、これが研究会出席と見栄を張る。
イヌヤマは 法相宗だろ、禅はカラッキシで、公案は進んでないと自白し、くちパクパクだけの悟前(ごぜん)だ。
法相宗奈良興福寺官長じっちゃんのお抱え運転手だったと吹聴する倒錯錯誤の病識無し。
それが唯一の自慢タラタラで全く無内容、年金暮らしで誰からもウトマレル。禅では無い。外道は去れ。
5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。
ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいの哀願奴隷です。
それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。
一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼イヌヤマの抱え込むリアル社会が正義の鉄槌を打ち下ろす絶対評価です。暴れさせゴミが溜ったら透明あぼ〜んが適切。
決してレスポンスしない事が大切。
○荒らし粘着糞雀鬼イヌヤマは無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。
荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。
○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。
荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。
○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。
荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。
○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。
ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜ん、スルーを活用。
○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。
荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい
○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除です〜♪ >>523
まだ4つあります。
観想で得た啓示を基に各人の九部経像を形にしてみるのも面白い 物質に執着する者は愚かであるが
自我に執着したり、自己見解に固執するものこそ愚か者である
我見から離れて自由になることこそ、自由への道
である >>528
科学によって。
おめーらは、倫理的解釈と自然科学をごちゃまぜにするからいけない。 阿含厨が洗脳されてるセクトには空のさとりが伝わらなかっただけでしょ。
元は分別説部で有部から破門されたグループだよ
実際、千年後にブッダゴーサが改竄し、その後途絶えたのを国外から
とってきたのが今のパーリだしね 「古代の創造神話や伝説に共通しているのは、
この物質世界が
或る精神的な中心から作られたという事で、
物質的なものは最後には再び精神的な世界に帰ってゆく」 この宇宙とは
真空のゆらぎの中で、たまたま生じた
幻の如き現象に過ぎないのである
色即是空 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
名があらわれて色があらわれる
有名万物之母
精神が物質を作った 外側=物質界に囚われていたのでは心の平安=涅槃は無く、無常なる色に我は無い 肉体は我に非ず いまだ悟りを得ていないものにとって、
三界は仮の宿のようなものである。 照見五蘊皆空 大悟涅槃寂滅
欲色界も
無色界も越えて涅槃寂静境に入る。
まず五蘊の超越から 密教においても、空を教学的には説きつつも
この世は毘盧遮那仏の顕われであり、自らもその一部と覚る事を目的とする等、実態は
圧倒的実在世界と法界を見做す思想もあって、実在非実在の見解は理論上のもの
に堕してるきらいもありそうです
覚った釈尊に法を説かせて衆生救済させたのは梵天だと見るなら
大乗の見地からは梵天のほうが殊勝で
毘盧遮那仏の化身だと見れます どこで質問してよいのか分からないので、マトモそうなこのスレに書きます
自分は、空を、あらゆるモノは相互依存により起こった幻想であると解釈しており、
このスレだと>>496とかなり近く、
また、同意とされる諸行無常からも、あらゆるモノは変化し続けるものであるとされ、
また、筏の譬えからも、究極的には法も捨ててもよいもの、つまり、「『真理すらも変化し続ける』のが真理」、と言うものなのに、
つい先日、法華経を読んでいたら「久遠の本仏」、つまり永遠の根本の仏という言葉が出てきて、しかも常住にして滅せず、と書かれている
これはどういった事なのでしょうか?
如来だけが例外的に永遠であるのか、それとも自分の解釈が間違っているのか、どなたか、ご教授ください 涅槃と虚空は常住でよろしいのでは?
涅槃すなわち如来。 またヨガの人もマテリアルの現象世界とは別なプルシャを覚るを
言いますが、それが涅槃と別なものであるとは言えません。また涅槃にも深浅があり、
生存世界にいる我々に体験し得るのは有余依涅槃でしょう >>544
返信ありがとうございます
そうだとすれば、かなり納得できると言うか、氷解しました
だとするなら、このスレでも度々言及されている梵我一如は、涅槃と同じモノであるように思います
バラモン教と仏教の関係も何となくわかってしまった
そうであるなら、釈迦の前に現れた梵天は、この宇宙の永遠不滅のモノの化身でなんですね 参考意見として、釈尊の説いた涅槃はアートマンの悟りよりもっと上だという人も
います。ただ説明は具体性に欠け、なんだか良くわかりません。ただ仏教的には
天部はまだ六道の中で輪廻し得る存在なので、そこから解脱するのが真仏説というのも
確かでしょうね 原始仏教聖典におけるattanとbrahman
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpbs/17/0/17_KJ00001034359/_pdf/-char/ja
○(無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、{しかしながら全く不可思議なことではあるが}
その(無明が)あるが故に、すがたをさらに{正しく}吟味して見るということが起こるのである。
{そして究極において}この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも{無明とともに}消滅するのである。
「すがたと無明の消滅」(人と世の真実を見極めて、無明を消滅する)
https://76263383.at.webry.info/201705/article_25.html
一切皆苦と見ることをしない凡夫は五蘊をアートマンとして見る。
しかしながら無明(煩悩)即菩提であるので、無明があるが故にすがたを正しく吟味して見るということが起きる。
一切皆苦であると見て、苦なる五蘊以外の何がアートマンであるのか常に更に吟味して見る。
そしてアートマンに執着するという無明が消失したときには、すがたを更に吟味して見るということもその無明とともに滅する。
自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。
此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、
大我なり、佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。
有(2)大我(1)故名(2)大涅槃(1)。 〔涅槃経23〕
汝獲(2)蕪等利(1)。位同(2)大我(1)。 〔大日経1〕
大我謂諸如來成-(2)就八自在我(1)。於(レ)法得(2)自在(1)者。 〔大日経疏5〕
今復約(2)眞我(1)明(2)心(ノ)實相(1)。此宗辨(レ)義即以(レ)心爲(2)如來應正等覺(1)。所謂内心(ノ)大我也。 〔〃1〕
唯有(2)大日如來(1)。於(2)無我中(1)得(2)大我(1)也。 〔吽字義〕 解脱涅槃を知解した円成実性 〜 究竟道とは、仮・空も超えた中の道と観じます。 Pure consciousness = True yourself プルシャ、純粋意識=我、涅槃(真我・至上我・真諦)
自分も真理を覚って解脱し、同時に一切を救える求道者と成る >>547
とても参考になりました
明確に、書かれてますね……仏の真我、大我
なんと言うか、色々なものが氷解して、繋がって、言葉が出なくなってしまった 最初から何も対立などしていない真実をありのまま観察する 動画サイト「エロチューブ」はワンクリック詐欺 - 10.54
https://www.youtube.com/watch?v=yLJlr3uioeg&list=RDCMUCS-F-vfCJisXIJgYHWpbhLg&index=12 この馬鹿栄進、酢昆布(すっこんでろ)!!
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イヌヤマは 法相宗だろ、禅はカラッキシで、公案は進んでないと自白し、くちパクパクだけの悟前(ごぜん)だ。
法相宗奈良興福寺官長じっちゃんのお抱え運転手だったと吹聴する倒錯錯誤の病識無し。
それが唯一の自慢タラタラで全く無内容、年金暮らしで誰からもウトマレル。禅では無い。外道は去れ。
5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。
ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいの哀願奴隷です。
それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。
一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼イヌヤマの抱え込むリアル社会が正義の鉄槌を打ち下ろす絶対評価です。暴れさせゴミが溜ったら透明あぼ〜んが適切。
決してレスポンスしない事が大切。
○荒らし粘着糞雀鬼イヌヤマは無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。
荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。
○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。
荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。
○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。
荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。
○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。
ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜ん、スルーを活用。
○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。
荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい
○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除です〜♪ 最後のガテーガテー〜のマントラが付加されてる一事より、
心経は仏説というより、大乗の菩薩が般若のエッセンスを纏めたものであり、
そもそも心経はお経ではなく、正確に訳すなら「摩訶般若波羅蜜多心」で、心とはつまり
要約書の意味なのである。 菩薩の悟り
「色即是空」の目に見えない縁起とは
菩提薩陀、依般若波羅蜜多故
以降は特にそうだと思いますが
そもそも冒頭から、観自在菩薩がシャーリプッタに説いている情景が描写される訳ですから
全てそうだとも言えると思います。
色蘊も原因と条件から成立し、何かの要素が少しでも欠ければその形にはなれなかった無実体な現象というような事
観自在菩薩が修行を積み「般若波羅蜜多時」とは悟りを開いて彼岸に渡ったということですから成仏した時という意味になります。
「照見五蘊」とは自分自身の体さえ「空」であることを悟るという意味で、「度一切苦厄」とは全ての苦しみから解脱したという意味です。
自在菩薩は修行を積み自分自身の体でさえ苦であることを悟って一切の苦しみから解脱し、成仏したという意味です。
その後に、舎利弗よ。色と空は異なったものではなく、同じものであるという説明がなされています。要するに前文は「空」を説明するための前置きの意味
といった解釈もあるようです。 >内外の客色を無明と言い、太陽光・電光を如来と言う、覚をもまた如来である、
覚と光は本来一つであってこれは如来の別名である、覚と光を《二元》世界とし、
覚が覚自身に統一するを、是を《一元》と名付ける、
一元とは自己と存在世界の統一のことであり三世多次元存在宇宙のこと、一念三千世界とは是なり。 >大乗仏教の如来の基本像として
「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来は、特徴を得たから、菩提を得たのか。
スブーティよ、このように、見てはならない。
特徴を備えたところで、菩提を得ることはない。」
「『如来が来る、去る、座る、寝る』
もし、このように説く者がいるならば、彼は、わたしが説いた、法を解してない。
というのも、如来は、普遍に存在しており、どこから来ることも、どこに去ることもない。
それだからこそ、如来と名付けられるのである。」
(金剛般若経)
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
(中論第二十二章 如来)
ということで、如来(仏)には特質がなく、我々が存在している世界の実相(真如)であると
実相は空であり分別というものがないので自他不二であるというのが大乗仏教 >>559
般若心経についてはサンスクリット原本でそのへんの解釈は解決してる。
心はちなみに原文では真言と同義。
般若波羅密多という仏の真言 を書いた文章。お経で無いってのは正解。
中国では漢訳作業が終わると原本を焼却処分するという酷いことが行われたので
法華経もそうだが原本により忠実な翻訳本がでたのは2000年代に入ってから。
漢訳の過程での改変や削除行為が行われていることは分かってきたが、
オトナの事情でスルーされてます。 本当の意味が知りたいなら漢訳本をいくら
考察しても無駄。 法も女も空なのに 日本の仏教は
おしなべて法への執着が凄まじい
空を言うも 口先だけ頭だけの
空念仏なのだ jimny JB74 - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=94pHeaUgl8Y&list=RDCMUCDkFxSg5BACOSA2MWkVgkVw&start_radio=1&t=0 > 初期唯識文献における他者の分別
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/3/65_1236/_article/-char/ja
ここに書いてあることは
6.先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。
10.たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ。
(ウダーナヴァルガ)
と同じ方向性であり、己が唯識へ悟入したのちに人を導けということ
これは自未得度先度他の理論とは違う 高知県香南市夜須町羽尾の禅寺「まきでら 長谷寺」、「延命十句観音経」。42文字の短いお経をただ何度も唱えることでご利益がえられるとされている。
https://www.youtube.com/watch?v=CyI1cE1cKTE 現象とは形骸化した抜け殻のようなものだという意味で
従って、諸法や五蘊に動かされて
生じた執着を持つのは無意味と
教えている。 ことばにされた瞬間に本来の意味とはまた別な
低級な何かに堕してしまう
とも言え、それが世俗の真理の限界も
示している 弥勒
大乗荘厳経論 教誠教授品 第37偈〜第41偈
世間はただ諸行に過ぎず、無我であって、苦の増大する所に過ぎない、と智慧を以って理解し、無益な我見を断じ、勝れた利益のある大我見に依止する。
ここに我見無くして我見あり、苦なくともしかも非常 に苦しみ、あたかも自己に対して自己の利益になることを行う場合のように、すべて[の衆生]に対して利益を為しつつ、しかもその返報を求めず、
その心は最高の解脱によって解脱しつつ、しかも堅牢で長い結縛によって結縛されて苦の果てることを見ず、[その苦を減する為に]ひたすら専念努力する。
(中略)
[これは菩薩にとって]衆生と自己とに関して平等であ るから、希有ではない。
(小谷訳) (S.Levied,p.95,11.13-22)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/48/1/48_1_405/_pdf/-char/ja
我見無くして我見あり、苦なくともしかも非常に苦しみ
↓
「ここに我見無くして我見あり」という場合、初地(
歓喜地)を得る時、「我見あり」とも「我見無し」とも言われる。
何故「我見無し」と言われるのか、と言えば、初地を得る時に有身見を断ずるが故に「我見無し」と言われる。
それでは何故「我見あり」と言われるのか、と言えば、自己が即ち衆生である、というように自己と衆生を平等に見るが故に、「我見がある」と言われるのである。
(安慧の復釈「経荘厳註疏」)
苦なくともしかも非常に苦しみ、も同じで、自己は最高の解脱によって解脱しつつある初地を得ているので苦はないのであるが、自己が衆生であると平等に見るが故に衆生の苦しみは自己の苦しみとなる。 ∩∩ お れ た ち の 仲間 に な ら な い か !!! V∩
(7ヌ) (/ /
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\ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄ ⌒ヽ(´∀` ) //
\ /⌒ ⌒ ̄ヽ、創価 /~⌒ ⌒ /
| 生保 |ー、 / ̄| //`i 在日 /
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|メンヘラ | | | / \ | |
|ホムレス | ) / /\ \| ヽ
/ ノ | / ヽ ヽ、_/) (\ ) ゝ |
| | | / /| / レ \`ー ' | | / /
集ストの構図ってこんな感じだとは思う
普通に生活している一般市民に対してリストラ工作や対人関係工作を行い精神的に追い込んで社会から脱落させ犯罪ネットワークに取り込む
生保の口利きをしてピンはねしたり組織票の票田に利用するのも創価のお家芸 2021年は、オーストリア政府によるコロナ感染予防対策が1月6日まで実施されるため、
ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは史上初めての無観客開催となり、 拍手はオンラインで届けられた。 閑話休題
スレタイの4字熟語は
どうやら仏教の根幹に係わる事柄を表わしてる
と気付きましたか。 多分、日蓮系以外はほぼ全部に関係する。
「ここが此の世の浄土ぞ」と思うにも
空を実践しないと、潔く思い切れないから、浄土系ですら係わる
と言えるのでは。 執心したことも
やがては忘れる 心も無常である
忘れれば、どーでもいいことになり、どうせ忘れる、取るに足りないこと
だったと気付く ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています