>>134
> 残念なのがお釈迦さまの言葉は古すぎて スッタニパータとかの1部にしか 本当に話してた言葉は残ってないということですよね 他にはダンマパタ とにかく自己の内面を観察するが主なる教えだったらしい 』

紙が無かった、と言う一点がある。
木の葉や、皮、石板、粘土板、等、古代文明世界は王の業績等を着f六していた。

釈迦牟尼は、文字で残さなかった。
語った。

人々の不要な食べ物を1日、1回、午前中にした。
残飯、腐敗した食べ物、等。

働かず自由を確保し、真理を探究することに没頭するための最低限、最小限度の生き方をした。
これならば、許されるであろう、と言う事である。

一日(あるひ)釈迦牟尼は炎天下、農作業に忙しい農民のそばの道を次の村へ足を急がれていた。
それを見た農民が、言う。
何もせず、ただ生きていると言うのは、理解できないなあ。
これを聞いた釈迦牟尼は言われる。
あなた方は 田を耕す、わたしはこころを耕す。

これらの事を、お弟子さんは、詞の覚えやすい形にして覚え、修行僧が出会えば、互いが覚えている詞を言いあって、確認し合った。

如是我聞
にょーぜーがーもん

このようにして、伝わってきたのである。

ただ、言っとくけど、250年前の日本を思い起こしてみてよ。

文字も無かったよね。

統一国家がまずなかった。

どっかの誰かや、エライさんが言った事が伝わってる?
無いよね。

口伝で伝わってることのお弟子さんたちの必死さが、よくわかってくる。

現在から、過去を見る時の誤まりには注意が必要と思う。