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改めて確認のために
大智度論 第一巻




仏の教えには、すべての事象は空であり、すべてのものに自我はない、と説かれている。それなのに、どうして経の初めに「是の如く我聞けり」と言うのか。



仏弟子は無我を理解しているが、世間のしきたりにならって、「我」と言っているだけだ。自我が本当に存在しているとは考えていない。
例えば、金貨で銅貨を買う行為を、笑う人がいないのと同じである。それは、売買の法がそうなっているから。
我と言うのもそれと同じで、無我の教えの中で、あえて我と言うのである。世俗の法に従っているからといって、非難してはならない。『天問経』に次の偈がある、

『阿羅漢、修行者は、煩悩を永遠に滅ぼしている。最後の身体において、我があると言うことができるだろうか』

仏は答える、

『阿羅漢、修行者は、煩悩を永遠に滅ぼしている。最後の身体において、我があると言うことができる』

世界悉檀のなかで我と説くのであって、第一義悉檀のなかで説くわけではない。つまり、第一義悉檀では、あらゆるものが空、無我であるが、世界悉檀のなかでは、我と言っても過失ではない。