趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(道とはどんなものでしょうか)とたずねた。
その答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)であった。
ここでいうところの道とは仏道ということである。
 趙州が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うた、
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた。
 趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問うた。
 これに対して南泉禅師は「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答えた。
 さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答えたので、趙州はその答えを聞いて悟った。