0721やぶれたワラジ
2020/08/03(月) 18:40:26.36ID:lgA7sZ2bその答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)であった。
ここでいうところの道とは仏道ということである。
趙州が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うた、
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた。
趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問うた。
これに対して南泉禅師は「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答えた。
さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答えたので、趙州はその答えを聞いて悟った。