「色即是空」解釈の誤り6
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
心経は多様な解釈を許すところがありますが、 では市販本に書かれてるような解釈は 本当に正しいのでしょうか? 個人的には、ブッダの「世間は陽炎の如し」の ”世間”を五蘊(色蘊)と言い換えた 無常と無自性が融合したイメージを喚起する 出世間の言葉と思ってましたが、 実際、空の意味として、{陽炎の如しの言い換えともとれるⒶ無実体Ⓑ幻想・夢幻・虚妄 だけでなく、様々な表現があり たとえば空をシンプルに 唯心と解釈したり、非我、人無我、法無我を表すとか、(一即)一切、全、不二一元、虚空、エネルギー、スーパーポジション、不定形 般若の浅略釈、本体、中諦へ導く方便、言語的に説明困難な真理を説く為のメタフォリカルな表現、苦の因を滅し安楽(涅槃)に変える智慧、 五蘊盛苦から執着を除き涅槃に導く無為法の慧、微妙なる真理、縁起する諸法、無所住、妄分別の滅、解脱の因、正体は見掛け通りの物でない事、総和は零、、 固定観念を無にする事、法如、雲のように重ね合わされた複数の現実、それらから一つの現実への確率的縁起、無戯論、プラクリティ、意識原理、戯論を滅する呪 名付けられる前の世界、心の中心に具わるゼロ点、真実在、理法、清浄、無所有、平等性智、彼岸に渡り切った菩薩の心身のあり方、一切の顛倒夢想を遠離した菩薩の境涯(五蘊の状態) 現象の三世に亘る全相貌、空無辺処定により生じる智、六神通の素、如実知見法、浄真如、諸法実相、非相、般若を世間法即涅槃と悟る為の方便、無所依、 無いに等しい事、零、無明をクリアするワイパー、理性と智慧の働きを促す引金、菩薩乗(菩薩の生き方)、左脳の初期化・右脳へのロック解除、究極的な物のあり方、 誤った認識を断つ力、滅諦の実性 法則、宇宙の最上位階層に位置する「情報」、一境性、無色定で感得する微細な意識、主客無分別な現量、妄分別・固定観念の破壊、 無執着、一切に囚われない心境、完全に執着を離した状態の実現、 心解脱、如来の智慧が遍在している処、 仏智による世界の直観的認識術、高度な透視能力、全てを見通す性質、煩悩の滅尽、寂滅、一心縁起、宇宙全体、仏がいる処、仏そのもの 等々 幾らでも出てきます。(また全て、ブッダの心にある、言葉で表現される以前の無分別な究極のシニフィエとしての真諦=仏教の真理に目覚めた人だけが 知っている実相を指します) >>637 さっきから同じこと何回レスしてんの? ひょっとして分裂気質なのか? >>639 鹿野よ >>638 はアンタと同意見で仏陀複数論を唱えているようだぞ 仲間が出来てよかったな >>640 反論する主張の根拠が「理想の記述であって現実の記述ではない」なんだから、呆れるしかないだろ。 お前も反論したいならまともな根拠に基づいて反論しろよ。 >>641 「定められた時間に、托鉢のために村に行け。」がもったいぶって言うルールだと?? >>642 ネットワークがおかしいとすでに言ったろ。 時間見りゃ手動で連投してないことくらい分かるだろ。 >>643 お前言うことがいちいち馬鹿野園レベルだな。 >>445 マハー・ヴァイローチャナ=宇宙を編まねく照らす光の本質は空としか定義されて無いし 釈迦族が日種族又は太陽の末裔を名乗っていたから 釈迦をこの世に遣わした釈迦よりも偉大な存在としてのヴァイローチャナ→より偉大なマハー・ヴァイローチャナとして変遷して行っただけだよ ブラフマン化させるなら釈迦ー梵天同体説にならないとおかしいでしょ? 最もその場合は大梵天をも平伏させた神より偉大な天人師というブッダの称号と論理的に矛盾するから 神より偉大なブッダの神格化はどうしたって避けなきゃならないんだよ だからブッダよりも偉大なブッダにするしかないし 原始経典の中にも三身について語られてる経典が有るから応報法の三身の位相の異なるブッダが登場して来るのもある意味自然な事じゃないかな? 馬鹿野園2号は 「定められた時間に、托鉢のために村に行け。」が守って当然のルールではなく、 理想だとあくまで言い張るのか? にさっさと回答しとけよ。 言い張るなら、そこで終わりにしてたわ。 結局、バカの相手してイライラするだけだった。 バカの相手は時間の無駄。 >>628 嘘つくな。 仏教学者の多くが否定的とは書いてあっても、正面から三枝先生が反対云々とか書いてないぞ。 書いてあるというのなら、マーキングして写メ送れよ? 多くの仏教学者が否定的で、三枝先生が特に痛烈に批判してるって趣旨だろうに。 >>598 訳文にはほぼ等しいと有ったが完全に同じだとはされて無かったからな ブッダの言葉を真面目に学ぼうとする人達は細部迄徹底的に調べるし お前みたいに大雑把な捉え方しか出来ない発達障害者には仏教は向いてないから他の単純な宗教にしとけば? 端から見てても自分が何を言われてるのかさえ理解出来ない癖に無駄にしつこいんだよ お前は お前の出しゃばりで議論のレベルが物凄く下がるから発言を控えててくれたら有り難いんだけどな 単に大乗を否定するんじゃなく せめて上座部の体験修行でもしてれば 此処まで対話が成立しないなんてあり得ないぞ 何にも解らない癖に背伸びしてるのが見ていて痛々しいわ 少し整理してみようと思う。 先ず、私は言語による分節が虚妄分別を生じるという視座に立ち、その解体が仏道の成道に資するという立場です。 その上で、十二支縁起でいう識→名色について、識とは言語による分節と思うので、かかる意味に於いて、マントラは言語による分節を離れた言語(真言)として、名色という虚妄分別を解体する手段として有効ではないかと思うんです。 ひいては、題目も称名も(理致の)公案も読経も、非言語の言語として虚妄分別を解体すると思うんです。 651.言語による分節は中立的なものである。 真理の表現ともなる。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>645 385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。 386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。 387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。 388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとり退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ。 389 もしもかれが、教えを聞く人、或るは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かんげぐちや他の誹謗することばを発してはならぬ。 390 実に或る人々は(誹謗の)ことばに反発する。かれらは浅はかな小賢しい人々をわれは称賛しない。(論争の)執著があちこちから生じて、かれらを束縛し、かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。 391 智慧のすぐれた人(ブッダ)の弟子は、幸せな人(ブッダ) の説きたもうた法を聞いて、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水とを、よく気をつけて用いよ。 392 それ故に、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水、──これらのものに対して、修行者は執著して汚れることがない。──蓮の葉に宿る水滴[が汚されない]ようなものである。 http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 一連の流れの中で読みなさい お釈迦様は煩悩を抜き去る修行法を説いて聞かせよう出家に相応しいその振る舞いを習い行えとして 最初に例の386を説き「時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。」定時に出かけるのはそのためである。 387では定時に托鉢のために村に入る時の心構えを説いている。 以下も煩悩を抜き去る修行法を一つ一つ説いている。 その流れを知っても「386で言ってることなんて当たり前だろ何が煩悩を抜き去る修行法だなどと思ったら」お釈迦様に対する侮蔑と言ってもいい ネットワークがおかしいのは分かってる その分を差し引いても13回も質問してきてるぞ少し粘着過ぎるな あと君の>>581 も根拠は鹿野の写メしか出してないよな 釈迦教団内では多分ゴータマブッダ以外にもブッダと呼ばれていた修行僧がいたことがこれこれの経典から「推測される」までしか書いてない写メではあるが スッタニパータ386も然り まあいい 君とのレスの応答もこれで最後だ とても付き合っていられんからな 今後君はあぼーんするするからそのつもりで というよりも君のような粘着君がいるこのスレにはもう来ない Wオリジナル仏教では無分別(智)を説いてないというのはありません。 虚妄分別の対治として無分別(智)が要請されるのは道理ですし、先に引用したスッタニパータからもその事は伺えます。 なお、分別には善・不善・無記があり、善の分別は仏道の成就に資するにしても、言語による分節に変わりはありませんので、いずれは解体される対象となると思うんです。 654.言語による分節、が解体される、か。 バカ丸出し、である。 大爆笑である。 次にブッダ複数説ですが、古層の経典でブッダが固有名詞ではなく普通名詞として扱われ、また複数形で表現されていたのは紛れもない事実です。 詳細は写メや並川先生や島田先生の著述が参考になると思います。 その上で、古層の経典で見られた複数形のブッダが、次第に阿羅漢と峻別されるようになりお釈迦様その方のみを指すようになりながらも、大乗思想の発生とともに再び複数形、お釈迦様以外のブッダを肯定・積極的に認める様になった事に、大乗思想の一源流を感じたわけです。 656.ブッダ複数説は関係がない。 重要性がない。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>649 三枝の、第二次論争の頃の評説の底には「『縁起』説を初期仏教思想の中心に据える」学界の趨勢や一般的思潮に対する強烈な焦燥が蟠っている。 彼にしてみれば、それが文献精査に基づく思想史的考察を欠いており、独断や偏見が横溢していて、とても学説とはいえない代物ばかりなのである。 私はさらに、その苛立ちの深奥に時代の思潮に対する三枝の危機感が窺知できるように思うが、それは第四章以降に詳述する。 それにしても三枝の「縁起はブッダの悟りの内容ではない」という見解は、前章でみた「十二支縁起は仏教の心髄」とするアルボムッレ・スマナサーラや「縁起を考え続ける人こそがブッダ(目覚めた人)」と説く松本史朗の見解とあまりに鮮やかな対照をなしていて、今日でも十分に刺戟的だ。 とあり、三枝のその主張に一定の理解を示す学者は宮地廓慧がいたくらいで三枝は孤立していたと後の方にも書いてあるな 同様に仏教学者の多くが十二支縁起をブッダの証悟の内容とすることに否定的だ。 と書いてあってもその否定的な仏教学者の名前で出てくるのは三枝とそれに全面的ではないにしろ理解を示す宮地しかいないのではな 他に名前が出ている和辻とか宇井とかほ特に否定してないだろ? これがこのスレでの自分の最後のレスになる 鹿野は粘着君とお互い暇つぶししてれば良いと思うぞ 鹿野が望むのならば、だが 南伝 聖求経 漢訳 羅摩経 この経には、最初の弟子達、所謂五比丘達が釈迦の弟子になった経緯が説かれている。 最初にコンダンニャが真理に眼を開き、やがて五比丘皆が聖者になったと、説かれている。 釈迦が亡くなって、第一結集で経典が編纂されたわけだが、それには五百人の阿羅漢が参集したという。 悟りを得た者でなければ、この経典編纂会議に参加する資格がなかったわけです。 660.資格審査はだれがやった、のか。 大爆笑である。 資格審査は、阿羅漢がやったのだよ、愚か者よ。 阿羅漢には、悟った者と悟らない者とが、即座に見分けられるのだよ。 覚えておきなさい、愚か者よ。 無分別智とか後得智などの理屈は、大乗経典から言われたのであり、パーリ聖典や阿含経典には出て来ない。 妄想分別は、勿論、無分別智関連ではない。 >>658 去る者を追う訳ではないですが、十二支縁起はブッダの証悟の内容でないというのは中村元氏あたりでも(はっきり言わないだけで) わかっていたと感じます。というのは、スッタニパータでも十二支縁起は説かれておらず後代の説というのは自明であり、それからも 二支縁起がブッダの証悟のほんの一部だったとわかるからです。というより、ブッダのさとりとは、世俗の者に対機説法で与えた枝葉ではなく、もっと巨大な さとりの智慧そのもの では?と感じます。無我も同じですが残骸でしかない痕跡の記録に固執し過ぎでは? >>658 なんの冗談かは存じませんが、奉加帳でもあるまいし、賛同者の氏名をいちいち列挙するわけないでしょ? ひいては反対者の名前が列挙されてる訳でもないし。 万が一、私はそんな事を言ってませんってなったら面倒でもあるし。 多数とある以上、多数でしょう。 ちなみに、並川先生や島田先生も否定派ですけどね。 >>651 >私は言語による分節が虚妄分別を生じるという視座に立ち、その解体が仏道の成道に資するという立場です。 要するに哲ちゃんのエピゴーネンというわけね しかも哲ちゃんと同じでサンスクリットもパーリも読めない、と 論破するのに3スレもあれば十分だが 教えてはならない。w 同じ世に二人の阿羅漢は現れない、とかもあるが、第一結集には五百人の阿羅漢が参集した。面白いことに、多聞第一の阿難は、釈迦生前中には悟れず、第一結集直前に、座長を務めた大カッサバによって、悟れている。 般若心経の「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道」を見れば、釈迦の悟りの内容が、十二支縁起と四諦であることを、十分に理解した上での、心経であることが分かる。 しかし、この心経が釈迦のオリジナル仏教を発展させたものか、歪めたものかは分からない。 ほんとうに何も分からない方が書き込みしてますね。ブッダシャキャムニは 十二支縁起など説いていませんよ。二支縁起に当たる内容は説き、後代の学者等が発展 させたのですよ。心経を説いた大乗の菩薩も十二支縁起成立の事情を知った上で 無無明亦〜と説いたのかも レス169 >八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍があります というのは全くその通りで、二支→十二支縁起等への発展を巧く言い表してる印象を受けます。 四諦ですら後代の教義学者の仕事であるようで、全て体裁よく纏めたディスクールへの執着から の離を(つまり概念でなく仏の智慧だよ、と)示唆してるのでは? 八頌品というのはスッタニパータ4章のことで最古層に属する詩句で、他に5章と1章が古層 に属するものとされてるようです 中村先生は八正道についてもゴータマ・ブッダが説いたか疑問としています。 https://i.imgur.com/SCfw2Ji.jpg https://i.imgur.com/O90mlui.jpg https://i.imgur.com/7VOcNsb.jpg 八正道は例えば相応部とそれに応対する雑阿含の二つで説かれており、異なる部派のアーガマで共通しているということは、結集の時に確認された教えであります。 もし八正道が非仏だとしたらどういう結集を経て各部派に共通する八正道の教えが誕生したというのでしょうか? 中村先生は、ブッダの最初の説法に八正道が述べられたという多くの経典は後世の虚構であり、後世になってかこつけたものである、としています。 この初転法輪を書いた「転法輪経」(『相応部』56-11) では四諦八正道が述べられていますが、少なくとも八正道の説法の部分は後世の虚構であり、後世になってかこつけたものであります。 https://komyojikyozo.web.fc2.com/snkv/sn22/sn22c093.htm スッタニバータなどは、ダンマパダみたいに釈迦の教えのその他に属するもので、悟りとはあまり関係ない。釈迦の教えの肝心なるものは、四苦八苦の滅尽である、涅槃を得ることだ。 それが悟りだ。南伝小部経典 自説経に、十二縁起が悟りの内容だとはっきり説かれている。 >>673 >>674 中村元先生はヴェーダーンタの色眼鏡で原始仏教を見てるから 八正道も要らないんだろう 四諦の道諦とは八正道のことだと説明している解説書がほとんどだが、阿含経典を読むと、疑問が生じる。阿含経では、念処正断神足根力覚道を修行して苦滅を得よ、と釈迦が弟子に説いている。このことから、道諦とは、所謂三十七道品のことだと思われる。 四諦の道諦が八正道だとして、八正道だけで苦滅が得られるのならば、四念処四正断四神足五根五力七覚といった修行法は不用になる。それはあり得ない。 阿含経では、修行法を道品法とも呼ぶ。道諦とは道品法=修行法のことと解釈すべきだね。 修行は肉体派がやる、ことである。 さとれば修行はない。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>677 そのまま逆にすれば、 四諦の道諦とは所謂三十七道品のことだと主張する人もいるが、 釈迦は八正道を説いているため、疑問が生じる。 このことから、道諦とは、八正道である。 になる。 お前らの主張は根拠と論理に欠ける。 つまり、頭が悪いんだろうな。 もっと、賢い奴はおらんのか? まともに議論できる奴がいない。 >>677 そのまま逆にすれば、 四諦の道諦とは所謂三十七道品のことだと主張する人もいるが、 釈迦は八正道を説いているため、疑問が生じる。 このことから、道諦とは、八正道である。 になる。 お前らの主張は根拠と論理に欠ける。 つまり、頭が悪いんだろうな。 もっと、賢い奴はおらんのか? まともに議論できる奴がいない。 八正道がどうのこうの、 六波羅蜜との違いはああだこうだ。 知識をいじくりまくって、 実行してんの?と聞かれたら、 知りませんーーーー興味ありませんーーーーーーーン。だと 知識馬鹿の集まりスレかいな。 確かに、道諦とは八正道だと説いた経もあるが、それは三十七道品のことだと解釈すべきなのだね。三十七道品とは、念処正謹神足根力覚道という七科の修行法の合計数のことだね。 この七科の最後がいつも八正道で終わる。 つまり、道諦とは念処〜八正道という意味だ。 もしも、釈迦の「道諦とは八正道だ」との言葉を聞いて、道諦とは八正道だけのことだ、と思った弟子がいたら、馬鹿者だ。 他の場所では、念処〜八正道を修行して悟れと説いているからだ。道諦とは八正道と説く場合には他の修行法を省略しているのだよ。 七科三十七道品というが、当初は三十七の数は無かったと研究者はいう。次第に数が増えて来て、最終的に三十七になったという。パーリでは数が出ていないのが普通だという。が、七科は当初からあったらしい。道諦が八正道という場合には、他の六科は省略しているのだよ。 スリランカでは四念処観から不浄観が除かれてるそうですが、 そうすると三念処になって三十六道品ですか? また正定といっても、タイとスリランカでは流儀が 異なるようですね >>686 四念処は身・受・心・法を観察するものだけど 身念処が不浄に対応する とある雑誌を読んでいたら、大乗を称する仏教圏の仏教徒率よりも、大乗から小乗と呼ばれた仏教圏の仏教徒率が遥かに高いという記事がありました。 勿論、その問題は複合的な視座から見ていかないといけない事ですけどね。 関係ない話かもしれませんが、法隆寺に伝わる貝葉(今は国立博物館で保管かな)のお経は、世界最古ではない様ですね。 古代仏教の研究は日進月歩で進んでいますし、最新の動向については知っておきたいものです。 禅定について学者の説のまとめ 1. 原始仏教に於て説かれた禅定(C)観は仏教独自のものでなく、その当時行なわれていたインドの修法に基づくものであろう。(吉瀬) 2. 仏教が成立した最初の時期には、禅定(C)の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。 すなわちdhyana、yoga, samadhi などである。(中村) 3. 瞑想(C)はその機能から大きく二つの範疇(止観(A,B))に分けられました。(箕輪) 4. samatha(止(A)) というのは、仏教が成立してしばらくたって一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた。(中村) 5. vjipassan(観(B)) という語は、原始仏教においても、かなり遅れて成立した。(中村) 6. 定には種々の使用例があり、止(A) 観(B)もその一部である(吉瀬) 引用論文 1.6. 〜 原始仏教の禅定観〜吉瀬 勝 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_823/_article/-char/ja 2.4.5. 〜 原始仏教における止観〜中村 元 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_24/_article/-char/ja/ 3. 〜 仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── 〜箕輪顕量 / http://zenken.agu.ac.jp/research/42/14.pdf ですが…… スッタニパータW マーガンディヤ経 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。 想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。 これは心解脱と慧解脱を指していると思われます。 とすると最古層の段階で解脱には二種類あると説かれいたことになります。 >>691 とは矛盾してきます。 タイはスリランカと比較してギスギスしてない感じがしますね。性格面の印象だけでなく 国が違うと実践面だけじゃなく経典解釈も変わるようだし、そもそもインドとは違う訳で、 時代的なずれもある、単に時間差だけじゃなく、元々の文化の違いも大きく。経典改竄まであった上 現代のコナーシャリズムによる汚染も根深いなら、どれだけ変質したか… >>673 うわべだけの知識だからそうなる。 悪魔は うわべだけのものにこだわる。 オマイたちは これ以上 この惑星の霊界の重要なポイントで 不正を働いてはならない。 >>694 霊界の重要なポイント?? カルト臭えなあ。 私が、道諦とは八正道のことだけではない、と確信したのは、自歓喜経を読んでいる時であった。自歓喜経というのは、釈尊と舎利弗の会話が主たる経で、舎利弗が釈尊の教法を褒め称える内容になっている。舎利弗は、釈尊の優れた教えは、悟りに導く「所謂道也」と言う。 自歓喜経で舎利弗は、釈尊の最も優れた教法の一つは、悟りに導く「所謂道也」と言う。 悟りへ道也というから、私はてっきり道諦の八正道のことかと思った。が、舎利弗が言う道也とは七覚支であった。それを釈尊は認めた。つまり、道諦とは三十七道品のことだと分かる。 修行して悟りを得ようとしている者なら、道諦を八正道に限定するバカバカしさに気づくだろう。修行しない字面だけ研究しているから、本質が分からないのだね。舎利弗が自歓喜経で、悟りへ導く道は、七覚支と言って釈迦がそれを認めた。道諦は三十七道品だと分かるだろう。 >>698 修行とやらが何を意味するのかはっきりしないが、オカルト的に思えるなあ。 八正道以外に釈迦が何を説いたと君は主張するのか? >>698 不明瞭な聞き方をしてしまったので補足。 正しく生きるといったこと以外に、釈迦が何を説いたと主張したいんだ? 君の言う修行とやらの効果は一体なんだね? 横だけど 本当に悟りの欲望を持っている人は 形式的な概念化に囚われず、必要なこと、修行の本質を知りたいと思うからでは? あとは現代人によくありがちな瞑想をすれば知識は起こるかもしれないが 正しい生活や態度で日々を過ごさない限り、心が準備されないため 知識が無知をオーバーライドしないということもあるでしょう。 ここで論駁が続いているのは結局そういうことでは? 求道者ならそれは悪い習慣なので避けるし、その原因に対処しようとするはず。 少なくとも、ある種の侮辱はその「人」の属性には成りえないため 正しい心にはそのような想念や態度は起こることはない。 >>701 八正道を理解してないくせに横からレスしてくるな。 知覚では感じられない宇宙がある。 ヘルメス文書 >>695 少なくとも四諦八正道や十二縁起説は、ブッダが説いたものではないことはもちろん、ブッダの死後、弟子たちが記憶していた師の教えをもとに、それを体系化したところにできたものでもない。 古臭い昭和時代の仏教論を吹聴して懐かしむスレはここですか? いまは令和の時代ですよ!? 五蘊は皆、悪魔であると如実に見て、一切の苦しみの素を遠ざけた 肉体は悪魔である 悪魔が肉体に化けたのだ 感受は悪魔である 悪魔が感受されて入って来るのだ 想念も悪魔である 悪魔が自己本位の想念を起こさせるのだ 因縁・カルマは悪魔である 悪魔が因縁をつけて来てるのだ 識も悪魔である 悪魔が人類を自滅させる知識を与えたのだ 物質界の誘惑は全部悪魔だと悟った境地(空の中)においては 五感も十二処、十八界も真実在では無いのである。 劣ったさとりへの慢や執着も亦 無きに等しいものなのである >色は苦どころか感覚世界は全部悪魔と言った感じの経もありました 悪魔がよく仏典に登場するし、一切皆苦というのが四法印にも入るほど 物事を正しく見られないのは 本人の責任。 精神病を治すのも 本人の責任だ。>>706 ☝ 定義そのものの間違い。 教えないよ。>>706 からのうつわだからと言って そんなに悲観しないように。 頑張って 復帰してください。 独覚(どっかく) 師なくしてひとりで悟る辟支仏(びゃくしぶつ) 縁覚の境地を縁覚地、十二因縁を観じてさとりを開く教えを縁覚乗、縁覚の道を説いた教えを縁覚蔵、縁覚の起こす菩提心を縁覚菩提という。 仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者(無師独悟) 八千頌般若経などの般若経典では、声聞・独覚と呼ばれる修行者は菩薩大士と対置されるものとして言及されることが多く、 その三つの教法を声聞乗・独覚乗・菩薩乗と呼ぶ 釈迦のオリジナル仏教には、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、などというものはない。これは大乗仏教が釈迦のオリジナル仏教を小乗と貶すために作ったものだ。 釈迦は弟子を声聞や縁覚とは呼ばない、四向四果で呼んだ。検索して調べてみなさい。 道諦を八正道に限定する考え方の不自然さに、気づいている修行者は多いようだ。 昨夜、禅宗の坊さんのブログを読んだが、 彼も、道諦を八正道に限定すると修行が進まない、と書いていた。正見が生じるのは四念処を修行してからだ、と書いていた。同感だ。 大乗は 何よりもまず、全ての有情、在家者のための教えである。 本来ならば、出家修行者のように 痴気に塗れた世間の有情たちから遠く離れ、僧院に籠って 修行に適した静かな環境で仏道を実践するところを 在家は世間の泥と隣り合わせの劣悪な環境で修行に取り組まねばならない。 これは考えようによっては、出家者よりも厳しい難業ともいえる。 しかも利他という目的がある。これは守旧派が何と言おうと、守旧派には無い眼目である。 他の三毒までをも空じて自他ともに救うには まず自他差別など遥かに超越した大乗菩薩の慈悲心を生ぜずには済まぬのである >>717 オリジナルをディスったんじゃなくて、説一切有部をディスったんだけどね >>718 四念処は念という語が入っていることからもわかるように、本来は正念を得るための修行だった 正念は、伝統的には、正しい記憶・注意・気遣い・意識等々と解されていた けど最近、モダンテーラワーダの影響で、念を「観察すること」または「気づき」と解釈する人が増えたので、 正見の前にないと具合が悪いと思う人が出てきた そして正見の定義もだんだん正念寄りに変化してきている わかりにくくはなったが、八正道全体として見れば同じであり、 区分けや順番がかわったに過ぎないから、たぶんどうでもいい 最終的に苦を滅することができれば道筋は人によって違ってよいのが仏教だし 初転法輪より 比丘たちよ、苦聖諦(苦しみという聖なる真理)とはこれである。生は苦である、病は苦である、死は苦である、怨憎するものに会うのは苦である、愛するものと別離するのは苦である、求めて得られないのは苦である、略説するに五取蘊は苦である。 比丘たちよ、苦集聖諦(苦しみの原因という聖なる真理)とはこれである。後の有をもたらし、喜貪倶行(喜びと貪りを伴う行)にして随所に歓喜する渇愛(タンハー)である。即ち欲愛・有愛・無有愛である。 比丘たちよ、苦滅聖諦(苦しみの消滅という聖なる真理)とはこれである。この渇愛を余りなく離れ滅し、棄捨し、定棄し、解脱して執着がないことである。 比丘たちよ、苦滅道聖諦(苦しみの消滅にいたる道という聖なる真理)とはこれである。八聖道である。即ち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429& ;id=25094422 ここでは道諦とは八正道であるとはっきりと定義しています。 但し中村元氏によると、「ブッダの最初の説法に八正道が述べられたという多くの経典は後世の虚構であり、後世になってかこつけたものである」とのことで、まさしくこの初転法輪がそれに当たります。 要するに、中村氏によれば、初転法輪での釈迦の説法は創作であるということになります。 知識を持つのが目的ならば、道諦を八正道に限定しようが、どうでもよい。しかし、修行して苦滅を得ようとする者には、道諦を八正道に限定するなど、馬鹿げた話になる。野球選手の上達方法を、キャッチボールに限定する程に、愚かしい話だよ。 釈迦がたまたま、道諦を八正道だと話たからといって、道諦を八正道だけに限定するのは馬鹿げた話だよ。そういう馬鹿では悟りは絶対に得られない。道諦とは、それを修行すれば悟りを得られるという真理のことだ。八正道とは全ての修行法を象徴しただけの話に過ぎないのだよ ある時、自歓喜経を読んでいたら、「世尊は欲を離れて悟りを得られるすばらしい「道」を説いている」との舎利弗の言葉をあった。その道とは八正道かと思ったら、七覚支であった。 つまり、道諦とは八正道でも正解、七覚支でも正解、四念処でも正解ということなのだね。 自歓喜経は、舎利弗が様々な釈迦の教法を取り上げて、その内容を褒め称える話だ。 それを聞いた釈迦は、舎利弗の力量を認め、「これからは、お前も比丘達に法を説きなさい」と、言った経だ。 中村氏が十二因縁説は後代に成立した説と説明してる部分 中村元 - ブッダの生涯 https://youtu.be/EvjMcWZGzQg?t=5800 >>722 中村先生は「この部分は後代の創作」という伝家の宝刀があるから無敵 八正道や十二因縁が後代の創作だとすると釈迦入滅直後の第一結集の時に創作されたとは思えないから 一説によると根本分裂があったという第二結集の時に創作されたのだろうか? でも四諦八正道は古層の経典と呼ばれるダンマパダにも出てくるので或いは第一結集の時には認められてた? …ってダンマパダとかの所謂小部経典って結集の時に漏れたから四阿含に入れられてなかったと思ったから経集以外の外伝みたいな位置づけだったような気もするし… いずれにせよ決定的なことはなさそうだな ただ説だけがあると >>732 スッタニパータでも最古層と思われる第4章と第5章、その中でも特に古いと思われる第4章2〜5にも 四諦八正道の種のようなものは散らばってるので、おそらく、内容的には釈迦も言ってたが、 それを四と八の数字に当てはめていい感じにまとめたのは第二結集以降ではないかと思う もちろん推測の域を出ないけど >>709 釈迦の教えそのものであるなら、独自の大乗経典を捏造する必要がないだろ。 なんで、独自の経典を捏造したの?んー??? 大乗を論破するにはこれで十分。 >>719 自他の区別がないのに、利他を唱える論理矛盾。 >>719 自他の区別がないのに、利他を唱える論理矛盾。 >>731 後からの創作だという根拠を示せないくせに 中村氏を批判するお前はどうなんだ? >>731 後からの創作だという根拠を示せないくせに 中村氏を批判するお前はどうなんだ? >>736 >>737 MMK24:8 仏による法の説示は、二種の真理(二諦)にもとづいてある。世間世俗の真理と、勝義からの真理とである。 MMK24:9 これら二種の真理の区別を知らない人々は、深遠な仏説における真実を知らない。 http://id.nii.ac.jp/1153/00000397/ 24:8 dve satye samupAzritya buddhAnAM dharmadezanA/ lokasaMvRtisatyaM ca satyaM ca paramArthataH// 24:9 ye 'nayor na vijAnanti vibhAgaM satyayor dvayoH/ te tattvamM na vijAnanti gambhIre buddhazAsane/ >>741 釈迦の教えそのものであるなら、独自の大乗経典を捏造する必要がないだろ。 なんで、独自の経典を捏造したの?んー??? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる